「岩松持国」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
8行目:
[[文安]]4年([[1447年]])、持氏の遺児・[[足利成氏|成氏]]が[[鎌倉市|鎌倉]]に帰還、鎌倉公方に就任した。しかし、成氏は先の2合戦で幕府方の[[上杉氏]]と対立、[[享徳]]3年([[1454年]])に[[関東管領]][[上杉憲忠]]を暗殺、[[享徳の乱]]を勃発させた。持国は成氏の命令を受けて山内屋敷を襲撃、[[長尾実景]]・[[長尾景住|景住]]父子を殺害した。
 
その後は[[古河公方]]となった成氏の元で[[上野国|上野]]で上杉軍と戦ったが、[[長禄]]2年([[1458年]])に[[堀越公方]][[足利政知]]が関東に下向、家純もこれに従い下向した。それに伴い、家純と家臣の[[横瀬国繁]]は政知と執事の[[渋川義鏡]]と協力して持国に帰服の書状を送った。8月に持国は所領安堵を認められたので幕府に寝返った。翌年の[[五十子の戦い|太田庄の戦い]]で2人の息子と共に上杉側として参戦している
 
ところが、[[寛正]]2年([[1461年]])に持国は長男の[[岩松次郎|次郎]]と共に家純に暗殺されてしまった。この事件は8代将軍[[足利義政]]が家純に持国父子が成氏に再び寝返ろうとした所を家純が討ち取った褒賞を与える事を書いた書状以外に資料がない為、真相は不明である。