「米沢藩」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Bandalgom (会話 | 投稿記録)
m →‎藩法: 行詰め
m編集の要約なし
7行目:
しかし上杉氏は[[関ヶ原の戦い]]に先立って[[徳川家康]]に敵対したため、[[1601年]]([[慶長]]6年)、景勝は120万石([[陸奥国]][[会津]]・[[白河郡]]・[[田村郡]]・[[安達郡]]・[[信夫郡]]・[[伊達郡]]、[[出羽国]][[田川郡 (羽前国)|田川郡]]・[[飽海郡]]・[[置賜郡]]、[[越後国]][[東蒲原郡]]、[[佐渡国]])から30万石に減封され、居城も米沢に移した。兼続は米沢城を景勝に譲り、米沢藩が成立する。藩領は、上杉氏の旧会津領120万石のうち、出羽国置賜郡([[置賜地方]])18万石と陸奥国[[伊達郡]](現[[伊達市 (福島県)|伊達市]]、[[伊達郡]]、[[福島市]])および[[信夫郡]](現[[福島県]][[福島市]])12万石からなっており、米沢からは峠を隔てた陸奥側の抑えとして[[福島城]]に重臣・[[本庄氏]]を城代として置いた。
 
[[1664年]]([[寛文]]4年)に3代[[上杉綱勝|綱勝]]が嗣子を定めないまま急死する。本来なら改易となるところ、綱勝の舅である会津藩主[[保科正之]]の尽力によって、綱勝の妹と[[高家 (江戸時代の高家)|高家]]の[[吉良義央]]の間に生まれた[[上杉綱憲|綱憲]]が[[末期養子]]に認められ、半減の置賜郡内15万石での存続が認められた。
 
相次ぐ減封にも拘らず、家臣の数は120万石当時とほぼ変わらなかったため、当然のごとく財政難に苦しめられて民衆も困窮した。これに心を痛めた8代藩主[[上杉重定|重定]]は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどであったが、9代藩主[[上杉鷹山|治憲]](鷹山)の藩政改革で財政の再建を果たした。また、置賜郡内の旧領のうち3万石(斉憲の代に上杉領となる)、越後国内に1万石の[[天領]]を[[幕府]]から預かっている。
293行目:
*[[宅間上杉家]] [[宅間上杉家]][[嫡流]]の旗本。
 
;[[高家 (江戸時代の高家)|高家]]
*[[上条上杉家]] [[上条長員]](上条政繁の次男)の子孫。
*[[能登畠山氏]] [[畠山義真]](上条政繁の三男)の子孫。