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| 画像の説明=
| 出生=[[1882年]][[12月19日]]
| 死去=[[1916年]][[11月8日]]<br />[[ファイル:Flag of Japan.svg|20px]] [[日本国]][[福岡県]][[福岡市]]
| 出身地={{QIN1890}}[[湖南省]][[邵陽市|宝慶県]]
| 職業=軍人
[[1915年]](民国4年)11月、袁世凱の帝政に反対した蔡鍔は、梁啓超らの援助で北京を脱出して雲南に戻った。12月25日、唐継尭らとともに雲南省の独立を宣言する。袁討伐のための護国軍が組織され、蔡は護国軍第1軍総司令となった(第2軍総司令[[李烈キン|李烈鈞]]、第3軍総司令唐継尭)。こうして[[護国戦争]]が始まったのである。
 
[[1916年]](民国5年)春、蔡鍔率いる2万人の護国軍第1軍は、[[四川省 (中華民国)|四川省]]の[[瀘州市|瀘州]]・納渓(現在の瀘州市納渓区)一帯で8万人の北京政府軍を撃破した。さらに、広西省の[[陸栄廷]]も独立を宣言したことにより、袁世凱による帝政の取消しを成功させた。袁世凱死去後の6月に蔡は、四川督軍兼省長となった。しかし結核に冒され、日本に行き、[[福岡]]で治療を受けることになる。
 
同年11月8日、蔡鍔は福岡県九州帝国大学医科大学附属医院(現在福岡[[九州大学病院]])で、そのまま死去した。享年35(満33歳)。[[1917年]](民国6年)4月12日、湖南省の岳麓山で国葬が執り行われた。
 
遺作は《蔡松坡集》。
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