「只見特定地域総合開発計画」の版間の差分

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田子倉ダムの場合、ダム建設によって田子倉集落の50[[戸]]が水没することになった。この田子倉は福島県下でも生活水準が極めて高い地域であり、[[会津若松市]]よりも高かった。[[電話]]が50戸中10戸、[[ラジオ]]は全戸所有していた。また進学率も高く[[東京大学]]に入学した住民もいた。こうしたことから反対運動は熾烈であり、加えて当時[[レッド・パージ]]によって非合法化されていた[[日本共産党]]が思想的扇動を行うなど補償交渉は難航を極めた。この補償問題に正面から対峙したのは大竹福島県知事と電源開発田子倉建設所長の'''北松友義'''であった。大竹知事は直ちに地元に入り住民の説得に当たり、福島県議会による[[土地収用法]]による強制収用勧告にも否定的であった。こうした態度に50戸中45戸が1954年までに補償基準に妥結したが、残る5名は共産党の支援を受けながら抵抗を強めた。北松はこれら反対派5名に日参して説得に当たるが住民からは「只見川の鬼」と罵倒され、[[屎尿]]や石を投げつけられたという。
 
父祖伝来の地を失う5名も必死で妥協点を見出すべく大竹知事に直接掛け合い、大竹知事は電源開発が提示した補償基準での妥結を認めた。ところがこの補償金額が当時のダム補償金相場に比べ大きく上回っており、ダム事業への影響が多大だとして建設省と通商産業省が猛反発した。結局相場通りの補償額に落とさざるを得なかったが住民は再び態度を硬化。さらに全国のダム建設予定地で補償金の増額を求めて事態が紛糾するケースが相次いだ。これを「'''[[田子倉ダム#田子倉ダム補償事件|田子倉ダム補償事件]]'''」と呼ぶ。しかし住民も次第に共産党主導の反対運動に疲弊し、[[日本農民組合]]や[[日本社会党]]<ref>共産党と同じ[[革新]]政党であったが、この開発計画には賛成の立場を表明していた。</ref>福島県連に仲介を依頼。共産党に発覚しないよう極秘裏に[[藤井崇治]]電源開発総裁や福島県幹部との最終交渉が持たれ、[[1956年]](昭和31年)[[7月25日]]に大竹知事との東京会談で最後の5戸も妥結した。この間北松は激務が祟り眼を患い退職、住民も疲弊するなど共産党による工作は地元に何の益ももたらさなかった。
 
一方滝ダムでも補償交渉が難航したが、特に問題となったのは「'''新戸'''」と呼ばれる住民であった。ダムによって水没する住民は177戸であったが、地元に縁もゆかりもない外来者がダム建設決定後の[[1957年]](昭和32年)頃より補償金目当てに続々と転入し、[[バラック]]小屋を建てた。その数は65戸・84棟に及び「住民」の中には[[暴力団]]員や[[韓国人]]もいた。補償交渉は最終的に大竹福島県知事の斡旋もあって、県に一任するということで大半は決定したが「新戸」の住民は補償金の吊り上げを目論み最後まで抵抗。最終的に2戸が土地収用法による強制収用を受けた。こうした補償金目当ての「新戸」問題は[[北山川]]の[[七色ダム]]・小森ダム([[三重県]]・[[和歌山県]])でも問題になったが、土地収用法による規制強化によって現在は見ることがない。