「コンラト1世 (オレシニツァ公)」の版間の差分

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== 生涯 ==
父が1309年に急死すると、コンラト1世は兄弟たちとともに共同統治者として公国を相続した。しかしコンラトはまだ未成年であり、母と兄[[ヘンリク4世ヴィエルヌィ|ヘンリク4世]]が1312年まで後見人を務めた。1310年3月3日、未だ未成年であったが、コンラトは兄ヘンリク、弟[[ボレスワフ (オレシニツァ公)|ボレスワフ]]とともに[[ベルリン]]での会合に出席した。この会合において、グウォグフ公爵兄弟は[[ポモジェ]]の[[グダニスク]]一帯を、金銭的補償と引き換えに[[ブランデンブルク辺境伯]]に明け渡すことに同意した。さらに外戚[[アスカン家]]との友好関係を保つため、兄弟は[[クロスノ・オジャンスキェ]]と[[ジャガン]]を差しだすことも約束した(しかし1319年には奪回を試みる)。
 
1312年2月29日、公国の公的な分割が行われた。コンラトとすぐ次弟ボレスワフは共同統治者として[[グウォグフ公国]]の東半([[オレシニツァ]]、[[ナムィスウフ]]、[[クルチュボルク]])、および[[カリシュ]]、[[グニェズノ]]一帯を獲得した。ヘンリク4世と、下の弟たち[[ヤン (シチナヴァ公)|ヤン]]および[[プシェムコ2世 (グウォグフ公)|プシェムコ2世]]は、[[シチナヴァ]]、[[ジャガン]]、[[ヴィエルコポルスカ]]の大部分を保持した。兄弟の母メヒティルドは、寡婦領として首都グウォグフを領有した。その1年後の1313年、コンラト1世とボレスワフは自分たちの公国をさらに分割することを決め、コンラトはカリシュ、ナムィスウフの公となった。