「マクシム・プルカエフ」の版間の差分

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1918年、[[赤軍]]に入隊し、1919年から共産党員。[[ロシア内戦]]時、中隊長としてシンビルスク、[[サマラ]]、ブグルスラン、オルスクの戦いに参加した。1919年8月から第24サマラ鉄師団の連隊長。1923年、「射撃」課程を修了し、連隊長、師団長補佐、師団参謀長、軍管区本部の課長、参謀次長を歴任する。1936年、M.V.フルンゼ名称軍事アカデミーを卒業し、師団長を務める。1938年~1940年、白ロシア軍管区参謀長。1940年7月からキエフ特別軍管区参謀長となり、[[ポーランド侵攻]]に参加した。
 
[[独ソ戦]]時、[[南西戦線 (ソ連軍)|南西戦線]]参謀長(1941年6月~7月)、第60軍(1941年12月から第3打撃軍)司令官、[[カリーニン戦線 (ソ連軍)|カリーニン戦線]]司令官(1942年~1943年)を歴任する。[[モスクワの戦い]]、トロペツコ・ホルムスク作戦、セリゲル川の敵防衛線の突破に参加し、ヴェリーキエ・ルーキ作戦を立案・実行した。
 
1943年4月から[[極東戦線 (ソ連軍)|極東戦線]]、後に[[第2極東戦線 (ソ連軍)|第2極東戦線]]司令官となる。1945年8月、[[満州]]、[[サハリン]]及び[[千島列島]]の日本軍を撃破した([[ソ連対日参戦]])。
 
戦後、[[極東軍管区]]司令官(1945年9月~1947年1月)。1947年6月から極東軍参謀長兼第一副総司令官。1952年7月、ソ連軍事省高等軍事教育施設局長。第2期ソ連最高会議代議員。
 
==パーソナル==
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