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内藤信成時代の駿府藩の内情は短期間のため、史料が少なく、藩政は詳しく分かっていない。
徳川頼宣時代の駿府藩は、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]である家康のもと、その側近によって[[東海道]]の整備、金山開発、検地、[[駿府城]]の改築などが行なわれ、藩政の基礎が固められた。なお、家康は駿府を江戸の西を守る要衝と考えていたようで、駿府城は家康時代に大規模な改築がなされている。
徳川忠長時代の駿府藩は、忠長の乱行が目立っているが、その重臣である[[朝倉宣正]]や[[鳥居成次]]らによって無難なく行なわれている。
天領時代の[[駿府]]は、[[駿府城代]]として幕府直属の大身旗本などが赴任し、
徳川家達時代の静岡藩の職制は、江戸幕府の役職をそのまま名前だけ変えて踏襲したものが大半だった。また、家達が幼少のため、準中老に[[大久保一翁]]、幹事役に[[勝海舟]]や[[山岡鉄舟]]らが任じられ、政務が行なわれている。ちなみに政府との交渉は、新政府寄りである勝海舟によって行なわれた。しかし、江戸時代の幕府天領・旗本領の総計約700万石と比べて十分の一の石高での立藩であり、新たな俸禄で生活可能な人数を超える旧幕臣や郎党が移住したため、その生活扶助のために藩の財政は早くも悪化した。そのため旧幕臣の[[渋沢栄一]]が起用され財政再建が行われた。
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