「色部勝長」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
23行目:
 
景虎(上杉謙信)の代では謙信の信任も厚く、[[関東]]での[[北条氏康]]との戦いで活躍し、[[永禄]]4年([[1561年]])の第四次[[川中島の戦い]]では[[柿崎景家]]の危機を救うなど、上杉軍の勇将として奮戦したため、謙信からその武功を賞賛されて[[安田長秀]]らと共に[[血染めの感状]]を頂戴している。[[永禄]]7年([[1564年]])の下野国佐野城攻撃でも功があり、謙信から感状を賜っている。以後2年間佐野城将を務める。[[永禄]]12年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]([[1569年]][[2月7日]])、本庄繁長の乱で繁長の居城・[[村上城]]を包囲中に繁長の夜襲に遭い討死。死因は病没ともいわれている。後を子の顕長が継いだ。
 
なお勝長の死後も色部氏は上杉家中で重用され、幕末に至るまで[[米沢藩]]の重臣として藩を支えていくことになる。子孫に[[元禄赤穂事件]]([[忠臣蔵]])の時に江戸家老を務めていた[[色部安長]](又四郎)や[[上杉鷹山]]の藩政改革の折に[[七家騒動]]で処分された[[色部照長]](典膳、のち修理)、[[戊辰戦争]]の時に米沢藩総督を勤め新潟で戦死した[[色部久長]](長門)らがいる。(養子等による家督相続も挟まれている為、直接の血縁では無い)
 
==人物・逸話==