「富勢村」の版間の差分

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当地区中、根戸村、宿連寺村、布施村および久寺家村は[[南相馬郡]]に属して、往古の風早荘の地であったと伝えられる。呼塚新田、根戸村新田、松ヶ崎村新田および柏堀ノ内新田は[[印旛郡]]に属し、風早荘、戸張郷の地であったと伝えられる。
 
* [[1873年]]([[明治]]6年) - [[小区分画の制]]施われた際、全地区とも'''第14大区1小区'''に編入される。
根戸村、宿連寺村、布施村、久寺家村、印旛郡呼塚新田、同郡根戸村新田、同郡松ヶ崎村新田、同郡柏堀ノ内新田字一番割および水神前を合併して、布施村が設置された。
* [[1875年]](明治8年) - '''第13大区3小区'''に編入替される。
 
* [[1873年]]([[明治]]6年) - 大小区分画の行われた際、全地区とも第14大区1小区に編入される。
* [[1875年]](明治8年) - 第13大区3小区に編入替される。
* [[1878年]](明治11年) - [[郡区町村編制法]]施行の際、布施村は独立し、他の村々は一団として村連合を組成した。
* [[1884年]](明治17年) - 戸長役場所轄区域更定の際、当地区に柏中村新田を加えて、同一戸長役場の所轄区域に編入された。
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*: 当地区は戸長役場所轄関係、学区のいずれも2つに分かれ、学区については久寺家村は我孫子宿ほか6村と共に、その他の各村は一団として、各々一区をなしていた。しかし、各村はいずれも農業を営んで生活し、人情、生活状態も同じで、合併上の不都合はなかった。
*: 布施村は、関係諸村中で圧倒的な大村であるため、新村名にその旧名を踏襲することを希望したが、他の村はそれを好まず、「布施」に音を通じて「富勢」村と命名することに決定した。
* [[1889年]](明治22年)[[5月22日]] - [[町村制]]施行により、布施村・根戸村・久寺家村・宿連寺村、布施村、久寺家村、印旛郡呼塚新田、同郡根戸新田、同郡松ヶ崎新田、同郡柏堀ノ内新田字一番割および水神前が合併し[[南相馬郡]]'''富勢村'''が誕生成立する。
* [[1897年]](明治30年)[[3月30日]] - [[東葛飾郡]]が南相馬郡を編入し東葛飾郡富勢村になる。
* [[1952年]](昭和27年)6月 - 町村合併協議会が設置され、4町村(富勢村、[[我孫子市|我孫子町]]、[[湖北村]]および[[布佐町]])による検討が始まりかけたが、各町村の事情により急速な進展は見られなかった。