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=== 日本における暦 ===
現在、世界各国で広く用いられているのは、太陽暦の1つである[[グレゴリオ暦]]である。
日本で[[グレゴリオ暦]]以前に使われた暦法は[[太陰太陽暦]]であった。[[元嘉暦]]から[[宣明暦]]までは[[中国暦]]を輸入して使った。これを[[漢暦五伝]]という。[[貞享暦]]から[[天保暦]]までは、日本人の手によって作られた暦法である。
 
[[中国の暦]]が日本に伝えられたのがいつであるか定かではないが、『[[日本書紀]]』には[[欽明天皇]]14年([[553年]])に[[百済]]に対し暦博士の来朝を要請し、翌年2月に来たとの記事があり、遅くとも[[6世紀]]には伝来していたと考えられる。この頃の百済で施行されていた暦法は[[元嘉暦]]であるので、この時、ときに伝来した暦も元嘉暦ではないかと推測される。
 
また[[推古天皇]]10年([[602年]])に百済から学僧[[観勒]]が暦本や天文地理書などを携えて来日し、幾人かの子弟らがこの観勒について勉強したとある。
[[官暦]]として正式に採用されたのがいつからであるかについては諸説ある。
 
[[平安時代]]に編集された『政事要略』という本には[[推古天皇]]12年([[604年]])から初めて暦の頒布を行ったと書かれているが、『日本書紀』では[[持統天皇]]4年([[690年]])の条にある「勅を奉りて始めて元嘉暦と[[儀鳳暦]]とを行う」という記事がはじめてであり、正式採用は持統天皇6年([[692年]])からという説がある。
 
[[文武天皇]]元年([[697年]])8月からは元嘉暦が廃され、[[儀鳳暦]]が専用された。[[儀鳳暦]]は[[唐]]で施行された[[麟徳暦]]のことである。元嘉暦と儀鳳暦の大きな違いは[[朔日]]の決定方法と[[閏月]]の置き方である。朔日については前者は[[平朔]]を、後者は[[定朔]]を使用していた。また、[[置閏法]]については、元嘉暦が19年7閏月という[[章法]]を採用していたのに対し、儀鳳暦では章法に拘らない[[破章法]]を用いていた。
 
また置閏法については元嘉暦が19年7閏月という[[章法]]を採用していたのに対し、儀鳳暦では章法に拘らない[[破章法]]を用いていた。儀鳳暦以降、[[大衍暦]]・[[五紀暦]]・[[宣明暦]]と唐で施行された暦法が相次いで輸入され施行された。実際の毎年の暦の作成・頒布は[[暦博士]]などの[[暦道]]の人々が行った。[[宣明暦]]は[[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]])よりから用いられたが、その後は中国との正式な国交が絶えたため、江戸時代まで823年間も施行された。
 
[[江戸時代]]になると日本でも独自に[[天文暦学]]が発展し、[[明]]の[[大統暦]]や西洋天文学の研究、天体観測が盛んに行われた。このようななかで、[[渋川春海]]が最初の自国の暦法である[[貞享暦]]を作るのに成功した。
 
貞享暦以後、[[宝暦暦]]・[[寛政暦]]・[[天保暦]]と日本独自に相次いで改暦が行われた。[[弘化]]元年([[1844年]])よりから施行された天保暦が日本で最後の太陰太陽暦であるが、れまで実施された太陰太陽暦のなかもっとも精密なものといわれ、当時中国で用いられていた[[時憲暦]]を上回ったと評されているが、当時の世界の流れに逆行して[[不定時法]]を導入するなどの問題点もあった。
 
現在でも民間では太陰太陽暦は年中行事や占いのために用いることがあり、これを[[旧暦]]と呼んでいるが、これは閏月の置き方を天保暦に借りはしているのの数値や計算法は現代の理論に従っているので厳密には天保暦と同義ではない。なお現在の中国でも太陰太陽暦が[[農暦]]という名で使われており、基本的に日本の旧暦と同じであるが、1時間の時差のために日がずれることが少なからずある。
 
=== 日本における暦法 ===