「少弐教頼」の版間の差分

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'''少弐 教頼'''(しょうに のりより、? - [[応仁]]2年([[1468年]]))は[[室町時代]]の[[武将]]。北九州の名門[[少弐氏]]当主。[[少弐満貞]]の子。[[少弐政資]]・[[千葉胤資]]・[[鍋島経房]]らの父。
 
[[1433年]]、父の満貞が[[周防国|周防]]の[[大内氏]]との抗争に敗れ兄[[少弐資嗣]]とともに戦死するともう一人の兄[[少弐嘉頼]]とともに[[対馬国|対馬]]の[[宗氏]]のもとに落ち延び、亡命先で嘉頼が[[1441年]]に没したので、残された教頼が家督を継いだ。6代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]から一字を貰いうけるなど[[室町幕府|幕府]]と誼を通じていたため、筑前守護として復帰するが、まもなく[[嘉吉の乱]]が勃発すると、[[赤松則繁]]の縁者を匿った罪で追討を受ける身になってしまい、[[大内教弘]]の攻撃にたびたびさらされ、[[対馬]]や[[肥前国|肥前]]にたびたび逃げ延びた。のちに[[応仁の乱]]が勃発すると、西軍として上洛した[[大内政弘]]の留守をつくため東軍に通じ宗氏の援助も借りて勢力回復を図ったが、またしても大内軍に敗れ[[筑前国|筑前]]の[[高祖城]]において自刃した。少弐家再興の夢は子の少弐頼忠(のちの少弐政資)に引き継がれた。
[[1433年]]、父の満貞が[[周防国|周防]]の[[大内氏]]との抗争に敗れ兄[[少弐資嗣]]とともに戦死するともう一人の兄
 
[[少弐嘉頼]]とともに[[対馬国|対馬]]の[[宗氏]]のもとに落ち延び、亡命先で嘉頼が[[1441年]]に没したので、残された教頼が家督を継いだ。[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]から一字を貰いうけるなど[[室町幕府|幕府]]と誼を通じていたため、筑前守護として復帰するが、まもなく[[嘉吉の乱]]が勃発すると、[[赤松氏]]の縁者を匿った罪で追討を受ける身になってしまい、[[大内教弘]]の攻撃にたびたびさらされ、[[対馬]]や[[肥前国|肥前]]にたびたび逃げ延びた。のちに[[応仁の乱]]が勃発すると、西軍として上洛した[[大内政弘]]の留守をつくため東軍に通じ宗氏の援助も借りて勢力回復を図ったが、またしても大内軍に敗れ[[筑前国|筑前]]の[[高祖城]]において自刃した。少弐家再興の夢は子の少弐頼忠(のちの少弐政資)に引き継がれた。
後に[[応仁の乱]]が勃発すると、西軍として上洛した[[大内政弘]]の留守をつくため東軍に通じ宗氏の援助も借りて勢力回復を図ったが、またしても大内軍に敗れ[[筑前国|筑前]]の[[高祖城]]において自刃した。少弐家再興の夢は子の少弐頼忠(後の少弐政資)に引き継がれた。
 
{{先代次代|[[少弐氏|少弐氏歴代当主]]|  |[[少弐嘉頼]]|[[少弐政資]]}}