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'''大内 盛見'''(おおうち もりみ、[[1377年]]([[天授 (日本)|天授]]3年/[[永和 (日本)|永和]]3年) - [[1431年]][[8月6日]]([[永享]]3年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]))は、[[室町時代]]前期の[[守護大名]]。[[大内氏]]の第11代当主。父は第9代当主・[[大内弘世]](盛見は6男)。[[大内義弘]]の弟。子に[[大内教弘]]、[[大内教幸]]。
 
[[1399年]]、[[応永の乱]]を起こした兄・義弘が幕府軍と戦って敗死した後、在国していた盛見は兄の後を継ごうとした。一方、兄と共に応永の乱に参加していた[[大内弘茂]](盛見の弟)は兄の敗死と共に幕府に降伏し、将軍・[[足利義満]]に臣従することでその後ろ盾を得て、兄の後を継ごうとしたため、ここに盛見と弘茂による後継者争いが起こった。盛見は[[1401年]]、[[長門国]]にて弘茂を滅ぼし、さらに弘茂の後を継いだ[[大内道通]]をも滅ぼして、家督を完全に我が物とした。幕府も盛見に対抗できるような人物がいなくなったため、止む無くその家督相続を追認している。

以後は幕命により[[九州]]の経営に尽力し、[[九州探題]][[渋川満直]]を援助して九州における騒乱を平定して[[筑前国]]・[[豊前国]]の[[守護]]にも任じられた。しかし筑前を所領としたことから、[[少弐氏]]や[[大友氏]]とその領有をめぐって敵対関係となり、九州に遠征して両氏と戦ったが、1431年に[[筑前深江駅|筑前深江]]にて戦死した。[[享年]]55。死後、後継ぎ争いの末に甥の[[大内持世]]が継いでいる。

法号は道雄。国清寺殿大先徳雄。墓所[[山口市]]の正宗山[[洞春寺]]また、[[福岡県]][[糟屋郡]][[粕屋町]]酒殿・浄土宗・徳鳳山崇月院[[泉蔵寺]]に首塚の墓所がある。法号は崇月院殿二品大先徳鳳大居士。
 
文人としても優れ、[[李氏朝鮮]]と通交して大きな利益を得ている。