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三十面相 (会話 | 投稿記録)
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袁尚については、器量の乏しさをうかがわせる逸話がある。まず、『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書[[崔エン|崔琰伝]]によれば、袁譚との後継争いの際に、[[騎都尉]]の崔琰を双方が招聘したが、崔琰は病気と称していずれにも与さなかった。怒った袁尚は、崔琰を収監してしまったが、配下の[[陰キ|陰夔]]と[[陳琳]]が取りなしたおかげで、なんとか赦免された。さらに、『三国志』魏書袁紹伝付・袁譚袁尚伝注に引く『典略』によれば、公孫康に処刑される直前に袁尚は寒がって筵を求めたが、兄の袁煕から「首級が万里の旅に出るのに、なぜ今さら筵がいるのか」と窘められた、としている<ref>『後漢書』袁紹伝によると、これは直後に二人を斬る公孫康の言葉である。</ref>。
 
袁尚は基本的に兄の譚に劣っていたとされるが、幹部級で見る限り、袁尚支持者は冀州出身として[[審配]]・[[沮鵠]]([[沮授]]の子)、袁紹側近の[[逢紀]]、さらに幽州を治める[[袁煕]]と并州の[[高幹]]などであり、[[郭図]][[辛評]](いずれも穎川出身、つまり河北出身ではない)を中心とする袁譚派に比べてかなり優勢であったことがうかがえる。正史の記述を優先するか、支持者の顔ぶれから判断するかは分かれるところであろう。
 
== 物語中の袁尚 ==