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'''金上 盛備'''(かながみ もりはる、[[大永]]7年([[1527年]]) - [[天正]]17年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1589年]][[7月17日]]))は[[蘆名氏]]の家臣。通称は'''[[遠江国|遠江]][[守]]'''。[[越後国]][[蒲原郡]][[津川城]]主。[[河沼郡]][[金上村]]を領す
[[越後国]][[蒲原郡]]小川荘[[津川城|狐戻城]]主。[[河沼郡]][[金上村]]を領す。
==略歴==
蘆名氏庶流。その卓越した政治手腕から「蘆名の執権」と呼ばれた。
 
[[天正]]6年([[1578年]]の[[御館の乱]]の際には、[[上杉景虎]]方として参戦した[[蘆名盛氏]]に従い、[[安田城 (越後国蒲原郡)|蒲原安田城]]を攻め落としている。盛氏死後も、後継の[[蘆名盛隆]]に重用され、天正9年([[1581年]]には上洛して[[織田信長]]に拝謁、この時信長に盛隆を[[三浦介]]と認めさせる事に成功している。また同年、越後で発生した[[新発田重家]]の乱においても、盛隆に従い重家方として[[上杉景勝]]軍と戦った。
 
天正14年([[1586年]]、[[蘆名亀王丸]]の死去に伴い、[[伊達氏]]・[[佐竹氏]]のどちらから養嗣子を迎えるかをめぐって家中が紛糾すると、盛備は盛氏時代からの功臣という実績を以て、[[佐竹氏]]から[[蘆名義広|結城義広]]を迎える案を強行した([[伊達政宗]]の弟・[[伊達政道|小次郎]]を迎えることに反対した理由としては、政宗が父・[[伊達輝宗|輝宗]]の方針を破棄して反蘆名的行動を繰り返していたこと、輝宗没後に伊達家による新発田重家の乱への介入が打ち切られたことが挙げられるところが、この時義広に従って新たに入ってきた大縄・刎石・平井などの旧・佐竹家臣と、譜代の蘆名氏の家臣団の間に深刻な亀裂が生じてしまい、蘆名氏の弱体化を招いてしまう。そこを政宗につけ込まれ、内応者が続出し、滅亡が決定的になったという。
 
天正15年([[1587年]]、新発田重家への補給拠点・[[赤谷城]]を守る[[小田切盛昭]]の救援に赴いたが、[[藤田信吉]]に撃退され、赤谷城は陥落する。
 
天正17年([[1589年]]、[[摺上原の戦い]]で伊達家の[[片倉景綱]]隊に突撃し戦死した。享年73
 
 
== 関連項目 ==
*[[三忠碑]]
*『[[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]]』(1987年[[NHK大河ドラマ]]、演:[[北島和男]])
 
 
[[Category:戦国武将|かなかみもりはる]]
[[Category:蘆名氏|かなかみもりはる]]
 
[[Category:1527年生|かなかみもりはる]]
[[Category:1589年没|かなかみもりはる]]