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藤井寺駅前地区の宅地造成や球場建設と並行して、道路や上下水道、商店、旅館、幼稚園などの生活施設も設置される中、藤井寺球場南側に開設された。これは、当時の学童に対する自然科学研究の資料提供を目的に設けられた日本初の施設で、教育界だけではなく多方面から大きな期待と注目を集めた。その後、数多くの学校が教材園の敷地内に分校や第二学舎を建設するようになった。
'''藤井寺教材園'''(ふじいでらきょうざいえん)とは[[1929年]](昭和4年)に[[藤井寺市]]に[[大阪鉄道]]によって作られた、花卉・果樹園、温室などを備えた自然体験学習の場である。
 
[[藤井寺駅]]前地区の宅地造成や球場建設と並行して、道路や上下水道、商店、旅館、幼稚園などの生活施設も設置される中、大阪鉄道の「藤井寺経営地計画」に基づき[[藤井寺球場]]南側に開設された。これは、当時の学童に対する自然科学研究の資料提供を目的に設けられた日本初の施設で、教育界だけではなく多方面から大きな期待と注目を集めた。その後、数多くの学校が教材園の敷地内に分校や第二学舎を建設するようになった。しかし、[[1933年]](昭和8年)には閉鎖された。
 
2万2000坪の園内中央には自然の松林があり、その周囲に1200坪の水中動植物養殖池が配されていた。松林にあった巨大な松のうちの数本は今でもサンヴァリエ春日丘敷地内に残っている。
 
昭和初期にはのどかな田園地帯が広がっていた藤井寺駅周辺も、昭和30年代に入ってからは都市化のスピードを加速した。教材園もそれにあわせるようにそ役割を終え、昭和30年代に跡地[[大阪女子短期大学]]や[[春日丘団地]]へと変貌していった。
 
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