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[[東京都立西高等学校]]、[[東京大学]][[経済学部]]卒業後、[[日活]]に助監督として入社。[[1982年]]に[[日活ロマンポルノ]]『ワイセツ家族 母と娘』で監督デビュー。[[1985年]]の監督作『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]』のヒットで注目され、同シリーズを立て続けに成功させ一時代を築く。また同作品では[[仲村トオル]]をオーディションで見出し、デビューへと導いた。
 
那須が監督を担当した作品のうち、『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]』以降はその全ての脚本を夫人の那須真知子が手がけている。『[[デビルマン (映画)|デビルマン]]』においては、「シナリオライターの卵20人にシナリオを書かせたが、満足のいくシナリオが無かった」ため、那須真知子を起用したと語っている<ref>映画「デビルマン」公式完全バイブル</ref>。が、破綻したシナリオを採用したことを作家の[[山本弘 (作家)|山本弘]]は「この際、『脚本は監督の奥さんに書かせたらあかん』という条項もつけ加えるべきかもしれんな(笑)。」と揶揄している<ref>[http://homepage3.nifty.com/hirorin/devilmaneiga.htm 山本弘の『SF秘密基地』内の「『デビルマン』は映画ファン必見だ!」]。</ref>完成した作品も「学芸会レベル」の演技やデタラメな展開等が集中砲火の様に非難され、結果として、この作品はあらゆる方面からの批判やバッシングの矢面に立たされ、制作費10億円に対し配給収益が5億円しか回収出来ない事態を招いている。更に文春きいちご賞(文藝春秋)と蛇いちご賞(スポーツ報知)の第1回となる2004年度では最低映画賞となった「デビルマン」と並んで最低監督賞をダントツで同時受賞するという不名誉な結果も残した
 
2005年2月27日、[[肝癌|肝臓がん]]のため53歳で死去。同年には遺作となった『真説タイガーマスク』が発表された。