「ロンドンスモッグ」の版間の差分

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1952年[[12月5日]]から[[12月10日]]の間、高気圧がイギリス上空を覆い、その結果冷たい霧がロンドンを覆った。あまりの寒さにロンドン市民は通常より多くの石炭を暖房に使った。同じ頃、ロンドンの地上交通を[[路面電車]]から[[ディーゼルエンジン|ディーゼル]][[バス (交通機関)|バス]]に転換する事業が完了したばかりだった。こうして暖房器具や火力発電所、ディーゼル車などから発生した亜硫酸ガス([[二酸化硫黄]])などの[[大気汚染]]物質は冷たい大気の層に閉じ込められ、滞留し濃縮されて[[水素イオン指数|pH]]2ともいわれる強酸性の高濃度の硫酸の霧を形成した。
 
この濃いスモッグは、前方が見えず運転ができないほどのものだった。特にロンドン東部の工業地帯・港湾地帯では自分の足元も見えないほどの濃さだった。建物内にまでスモッグが侵入し、コンサート会場や映画館では「舞台やスクリーンが見えない」との理由で上演や上映が中止された。同様に多くの家にもスモッグは侵入していた。人々は目が痛み、のどや鼻を傷め咳が止まらなくなった。大スモッグの次の週までに、病院では[[気管支炎]]、気管支[[肺炎]]、[[心臓病]]などの重い患者が次々に運び込まれ、普段の冬より4,000人も多くの人が死んだことが明らかになった。その多くは老人や子供や慢性疾患の患者であった。その後の数週間でさらに8,000人が死亡し、合計死者数は12,000人を超える大惨事となった。
 
この衝撃的な結末は大気汚染を真剣に考え直す契機になり、スモッグがすぐそこにある深刻な問題であることを全世界に知らしめた。イギリスでは多くのすすを出す燃料の使用を規制し、工場などがすすを含んだ排煙を出すことを禁じる新しい基準が打ち出され、[[1956年]]と[[1968年]]の「大気浄化法(Clean Air Act)」と、[[1954年]]の「ロンドン市法(City of London (Various Powers) Act 1954)」の制定につながった。