「ヤーノシュ・ジグモンド」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
Locust-of-abaddon (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
||
2行目:
'''サポヤイ・ヤーノシュ・ジグモンド'''(Szapolyai János Zsigmond, [[1540年]][[7月18日]] - [[1571年]][[3月14日]])は、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の[[対立王]](在位:1540年 - 1570年)、[[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア公]](在位:1570年 - 1571年)。[[サポヤイ・ヤーノシュ]]の一人息子、母は[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ジグムント1世]]の娘[[イザベラ・ヤギェロンカ|イザベラ]]。'''ヤーノシュ2世'''とも呼ばれる。
生後2週間で父を失い、それ以後1540年から1570年まで「[[東ハンガリー王国]]」を統治した。ただし、王国を長期にわたって統治していたのは、[[オスマン帝国]]の
1570年、ヤーノシュ・ジグモンドは敵対する[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク家]]の[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]をハンガリー王と認めて自らの王位を放棄し、その補償という形で初代のトランシルヴァニア公となった。翌1571年にヤーノシュが死んだとき、その遺言によって財務長官[[ベーケーシ・ガーシュパール]]が後継者に指名されたが、トランシルヴァニアの貴族たちはヤーノシュの遺志を尊重せず、[[ステファン・バートリ (ポーランド王)|バートリ・イシュトヴァーン]]を自分たちの新たな君主に選んだ。このため両者の間で内戦が勃発したが、勝利したのはバートリの側だった。
|