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{{漢字|[[ファイル:LishuHuashanmiao.jpg|170px|河南省 西嶽華山廟碑 拓本]]}}
'''隷書体'''(れいしょたい)は、[[漢字]]の[[書体]]の一つ。'''八分」「隷'''・'''八分'''・'''分書'''とも呼ばれる。画像は『[[中国の筆跡一覧#西嶽華山廟碑|西嶽華山廟碑]]』([[拓本]]、部分)
 
== 概要 ==
[[中国の書家一覧#程邈|程邈]]という下級役人が罪を得て獄中にあった時、隷書を発明しこれを献上することで[[始皇帝]]に赦されたという伝承があるが、これは俗説に過ぎない。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]頃から日常に通用されていた筆記体が、[[秦]]代になって業務効率を上げるために公文書でも用いられるようになったものが、隷書だと考えられている。紀元前3世紀後半の「[[睡虎地秦簡]]」などに見られる、[[篆書体|篆書]]を簡略化した過渡的な書風を「秦隷」と呼ぶ。
 
[[前漢]]前期には篆書から隷書への移行が進み、秦隷と平行して、[[草書体|草書]]のもととなる早書きの「草隷」・秦隷の要素を残した[[書道用語一覧#波磔|波磔]]の小さい「[[中国の書道史#古隷|古隷]]」・波磔を強調した装飾的な「八分」など、多様な書風が展開されていたことが、「[[中国の書道史#馬王堆帛書|馬王堆帛書]]」「銀雀山竹簡」「鳳凰山木牘」などの帛書や簡牘類によって確められる。また、前漢中後期を中心とする資料「[[居延漢簡]]」では、これらの書風がすでに様式として確立されている姿を見ることができる。
 
[[新]]を経て[[後漢]]に入ると、筆記体としての隷書はさらに発展し、草隷より進んだ速写体である「[[中国の道史#章草|章草]]」(「武威旱灘坡医牘」)や、現在の[[行書体|行書]]ないし[[楷書体|楷書]]のもととなる書風の萌芽(「永寿二年三月瓶」)をも見ることができる。そして、隷書が盛んに通行したこの時代、安定した政権のもとで儒教の形式化が進むにつれ、隷書を用いて石に半永続的な記録を刻むことが流行した。それら後漢の刻石資料に見られる書風は、おおむね[[桓帝 (漢)|桓帝]]または[[霊帝 (漢)|霊帝]]の前後で二分することができ、その前半期には古隷が多く、後半期には八分が多い。これらはいずれも[[書道]]における隷書体の範を示すものとして、後世から最高の評価を与えられている。
 
漢王朝の衰退に伴って、書体としての隷書の知識や技法は失われていった。[[紙]]の発明と普及が、筆記の方法や形態に何らかの影響を及ぼしたことも考えられる。いずれにせよ、その後隷書が広く用いられることはなく、研究や表現の一形式として試みられるに留まっている。
 
== 特徴 ==
[[ファイル:Clerical Eg.png|thumb|250pxleft|150px|楷書(左)、隷書(右)]]
左右の払いで波打つような運筆('''波磔''')をもち、一字一字が横長であるのが主な特徴。
 
字体が篆書と異なり横長になったのは、記録媒体が柾目の木簡に変化したためで、柾目を横切る横画に大きな負担がかかるためである。木簡・竹簡・帛書に書く場合は少々右上がりの字体も見られるが、石碑に彫る場合には字全体は水平になるよう彫り師が修正する。また書者も篆書のような硬筆を好まず、横画をドーム状に膨らませたり([[#乙瑛碑|乙瑛碑]]など)、楷書で言う「[[書法#向勢|向勢]]」を取って字を引き締めたり([[中国の筆跡一覧#史晨前碑|史晨前後]]など)、重心を字の左に寄せて長く太い波磔でバランスを取る([[#曹全碑|曹全碑]]など)、1字の中で筆跡の強弱を極端に変化させる([[中国の筆跡一覧#礼器碑|礼器碑]]など)、あえて古式な字体に戻しながらも波磔の妙と折衷させる([[中国の筆跡一覧#張遷碑|張遷碑]]など)といったように、字の書き方に創意工夫を加えるようになる。なお、波磔は1字につき1回しか認めないルールが確立していた。
 
篆書から隷書への変化は字形の違いが大きく、これを「隷変」と呼ぶ。隷書は主に直線と鉤状の折れ線によって成っている。ここに至って初めて[[筆画]][[書道用語一覧#筆勢|筆勢]]が生まれた。それに従って、筆記のための省画や「{{Lang|zh|氵}}」(さんずい)や「{{Lang|zh|亻}}」(にんべん)などの部首の変形が広く行われるようになり、筆記に適した文字に変化した。その一方、隷書以降の文字は一見して字源を知ることが困難になった。
 
== 定義 ==
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隷書体の主な[[筆跡]]には以下のものがある。
=== 乙瑛碑 ===
乙瑛碑(いつえいひ、八分隷)の全名は『魯相乙瑛置孔廟百石卒史碑(ろしょういつえいちこうびょうひゃくせきそつしひ)』などという。建碑は[[永興 (漢)|永興]]元年(153年)。[[山東省]][[曲阜]]の[[孔子廟]]に現存する。碑文は、全18行、各行40字で、内容は、[[桓帝 (漢)|桓帝]]のとき、[[魯|魯国]]の相であった[[乙瑛]]の申請によって魯の孔子廟に百石の卒史(そつし、漢代の書記の官名)を置いて廟を守らせることになった次第およびその関係者の功績を記したものである。[[書道用語一覧#結体(けったい、字形)|結体]]は緊密で謹厳、筆力は雄健で波磔は力強く、漢代の隷書の中でも優れた碑である。
 
=== 曹全碑 ===
曹全碑(そうぜんひ、八分隷)の全名は『郃陽令曹全碑(こうようれいそうぜんひ)』という。建碑は[[中平]]2年(185年)。[[明]]の[[隆慶 (明)|隆慶]]から[[万暦|萬暦]]の間に[[陝西省]]郃陽県の旧城から出土した。碑額は出土の時からないが碑文はほぼ完全に残っており、全20行で初行から19行は各行45字、末行に「中平二年十月丙辰造」の9字で建碑の年月日(185年10月21日)が明記されている。碑陰の文字はやや小さく、建立関係者の名が5列57行で列挙されている。現在は西安碑林にある。<br>

碑は[[曹全]](字は景完)の治績を記した頌徳碑である。曹全は[[敦煌市|敦煌]]の人で、[[光和]]7年(184年)郃陽令となり、[[黄巾の乱]]を収拾した功績により建碑された。数多い漢碑の代表的名品であり、完成された八分の技法を示すものである。他の碑と比較して女性的とする評が多い。石質が堅牢で文字が非常に鮮明であり、出土以後[[拓本]]によって多くの[[書家|書人]]に学ばれている。[[天保]]年間に日本へ伝えられた。
 
<!-- == 隷書で著名な日本の書家 ==
[[芸術新聞社]]発行の書道専門誌 『[[墨 (書道雑誌)|墨]]』 のテーマ企画として'''「現代の隷書」20選'''があり、戦後を代表する隷書20点が掲載された。その[[書家]]の面々は以下とおりである。
<table width="60%"><tr><td valign=top width="30%">
*[[豊道春海]]
*[[松本芳翠]]
*[[辻本史邑]]
*[[田中真洲]]
*[[手島右卿]]
*[[上田桑鳩]]
*[[金子鴎亭]]
*[[西川寧]]
*[[青山杉雨]]
*[[中村素堂]]
</td><td valign=top>
*[[松井如流]]
*[[木村卜堂]]
*[[村上三島]]
*[[井垣北城]]
*[[浅見筧洞]]
*[[今井凌雪]]
*[[花田峰堂]]
*[[安原皐雲]]
*[[谷村憙齋]]
*[[大野篁軒]]
</td></tr></table> -->
== 特記事項 ==
* 隷書の代表的な辞典として『[[隷辨]]』(れいべん)、顧藹吉(こあいきつ)撰、1718年刊がある。漢碑に見える隷書のさまざまな字体を集めて韻目順に配列し、解説を加えたものである。
* 現在の日本では、[[日本銀行券|紙幣]]の額面で隷書体が用いられている。
 
== 参考文献 ==
* 西林昭一『書の文化史〈上〉』二玄社、1991年(ISBN(ISBN 4544010594)4544010594)
* 伏見冲敬『書の歴史 中国篇』二玄社、1960年(ISBN(ISBN 4544010004)4544010004)
 
== 外部リンク ==
*[http://www.nisk.jp/shodokisochishiki/shodonorekishi.html インターネット書道協会「書道の歴史」]
 
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