「シャルル3世 (ブルボン公)」の版間の差分

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[[画像:Charles III, Duke of Bourbon.jpg|thumb|ブルボン公シャルル3世]]
'''シャルル3世'''(Charles III de Bourbon, [[1490年]][[2月17日]] - [[1527年]][[5月6日]])は、[[ブルボン家|ブルボン公]]、モンパンシエ伯。父は[[ブルボン家]]傍系の[[ジルベール (モンパンシエ伯)|モンパンシエ伯ジルベール]]{{enlink|Gilbert, Count of Montpensier|a=on}}、母は[[マントヴァの領主一覧|マントヴァ侯]][[フェデリーコ1世・ゴンザーガ|フェデリーコ1世]]の娘シアラ(キアッラ)。兄ルイ2世の夭逝により[[1501年]]にモンパンシエ伯を継いだ。次いでブルボン家宗家の相続人で[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]の外孫(ブルボン公[[ピエール2世 (ブルボン公)|ピエール2世]]と[[アンヌ・ド・ボージュー]]の娘)である又従妹の[[シュザンヌ・ド・ブルボン|シュザンヌ]]([[1491年]] - [[1521年]])と[[1505年]]に結婚し、ブルボン家家長および共同のブルボン公となった。
 
シャルルは武勇に秀でており、[[1515年]][[マリニャーノの戦い]]([[:en:{{enlink|Battle of Marignano]])|a=on}}における功績により、シャルルは[[フランス王国|フランス]]王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]によってフランス元帥([[:en:{{enlink|Constable of France|Connétable de France]])}}に任じられた。また、[[ミラノ]][[総督]]にも任じられたが、フランソワ1世は間もなくシャルルを解任してフランスへ呼び戻した。
 
[[1521年]]に妻シュザンヌが死去すると、フランソワ1世の母でブルボン家の血を引く[[ルイーズ・ド・サヴォワ]]が相続権を主張した。ルイーズはブルボン公[[1476年]]シャルル1世 - [[1531年(ブルボン公)|シャルル1世]]の娘マルグリットと[[サヴォイア公国|サヴォイア公]][[フィリッポ2世・ディ・サヴォイア|フィリッポ1世]]の娘でブルボン公[[あった。シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル1世]]の外孫)が相続権を主張に対た。ルイーズはシャルル自身との結婚による相続権問題解決することを提案したが、シャルルはこれを断わった。フランソワ1世が母に代わって所領を没収したことから、憤激したシャルルは王を見限って、当時フランスと[[イタリア戦争]]を戦っていた[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に接近し、[[アンドリアン・デ・クロワ]]を介して[[1523年]]に密約を交わした。カール5世はその報償とて、姉[[レオノール・デ・アウストリア|エレオノーレ]]との結婚をシャルルに約束た<ref>[[フランチェスコ・グイチャルディーニ|グイチャルディーニ]]著、[[川本英明]]訳『イタリア史VII』([[太陽出版]]、2005年)、P185</ref>(のちにエレオノーレはフランソワ1世と結婚している)。シャルルは更にイングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]巻き込んだ陰謀密約を交わした。シャルルが企てた計画フランソワ1世が[[イタリア]]出兵する隙を突いて[[ブルゴーニュ]]を攻撃するというのであり、見破られないよう仮病を装っていた<ref>同、P186</ref>。しかしフランソワ1世が陰謀の噂やそれを裏付ける手紙を手に入れたことにより陰謀は発覚したため、シャルル3世[[1523年]]にイタリアへ逃亡し<ref>同、P187</ref>
 
カール5世はシャルルにドイツ人とスペイン人の混成軍の指揮を委ね、シャルルは[[1525年]]の[[パヴィアの戦い]]では旧主フランソワ1世を捕虜にするなどの活躍を見せた。フランソワ1世は[[1526年]]にカール5世との間でが王位を兼ねる[[マドリード条約 (1526年)|マドリード条約スペイン]]を結んで釈放に護送され、シャルルもそれを追う形でスペインへ向かったが、帰国すると条約の不履行スペイン貴族からは主君宣言して翌[[1527年]]に戦争を再開し裏切っ卑劣漢と見なされた<ref>グイッチァルディーニ著、川本英明訳『イタリア史VIII』(太陽出版、2006年)、P108</ref>
 
フランソワ1世は[[1526年]]にカール5世との間で[[マドリード条約 (1526年)|マドリード条約]]を結んで釈放されたが、帰国すると条約の不履行を宣言して翌[[1527年]]に戦争を再開した。カール5世はフランスと結んだ[[教皇]][[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]への報復のため、[[ローマ]]へシャルルを指揮官とする軍勢を侵攻させた。[[1527]][[5月6日]]の教皇軍との戦闘において、シャルルは教皇軍を敗走させたもの、教皇は[[サンタンジェロ城]]に逃げ込んだ。シャルル軍勢はローマを包囲し、シャルル自身は戦死ら陣頭に立って指揮を執っていたが、梯子に上っているところを狙撃されて落命した。指揮官を失ったことから皇帝軍は統制を失い、[[ローマ略奪]]が引き起こされた。
 
シャルル3世の死によって、初代ブルボン公[[ルイ1世 (ブルボン公)|ルイ1世]]の長男[[ピエール1世 (ブルボン公)|ピエール1世]]の系統であるブルボン家の流は断絶した。そのため、ルイ1世の四男[[ジャック1世 (ラ・マルシュ伯)|ラ・マルシュ伯ジャック1世]]{{enlink|James I, Count of La Marche|a=on}}の子孫である[[シャルル・ド・ブルボン (ヴァンドーム公)|ヴァンドーム公シャルル]]がブルボン公の称号を継承した。フランス王および[[ナバラ王国|ナバラ王]]となった[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]はヴァンドーム公シャルルの孫である。
 
== 脚注 ==
<references />
 
{{先代次代|[[ブルボン家|ブルボン公]]|1505年 - 1527年<br><small>[[シュザンヌ・ド・ブルボン|シュザンヌ]]と共に<br>(1521年まで)</small>|[[シュザンヌ・ド・ブルボン|シュザンヌ]]|[[シャルル・ド・ブルボン (ヴァンドーム公)|シャルル4世]]}}
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[[ru:Карл III де Бурбон]]
シャルル3世は武勇に秀でており、[[マリニャーノの戦い]]{{enlink|Battle of Marignano|a=on}}で功を立てて元帥に任じられ、更には[[ミラノ]][[総督]]に任じられた。だが、それ故にフランソワ1世は恐れたのか、シャルル3世は間もなく更迭されて帰国を命じられた。[[1521年]]にシャルル3世の妻シュザンヌが没すると、フランソワ1世の母でブルボン公シャルル1世の外孫である[[ルイーズ・ド・サヴォワ]]がブルボン家の相続権を主張し、シュザンヌの領地はフランソワ1世に没収された。これに憤激したシャルル3世は、[[1523年]]に[[アンドリアン・デ・クロワ]]を介して[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]と密かに同盟を結んだ。カール5世はその報償として姉[[レオノール・デ・アウストリア|エレオノーレ]]との結婚を約束した<ref>F.グイッチャルディーニ著、[[川本英明]]著『イタリア史Ⅶ』、[[太陽出版]]、2005年、P185</ref>(のちにエレオノーレはフランソワ1世と結婚している)。シャルル3世は更にイングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]とも同盟を結んだ。シャルル3世が企てた計画は、フランソワ1世が[[イタリア]]に出兵する隙を突いて[[ブルゴーニュ]]を攻撃するというものであり、それが表立って現れないよう仮病を装っていた<ref>同、P186</ref>。しかしフランソワ1世が陰謀の噂やそれを裏付ける手紙を手に入れたことにより陰謀は発覚し、シャルル3世はカール5世の許に逃亡した<ref>同、P187</ref>。
 
フランソワ1世は[[ロンバルディア]]の支配を目指して[[パヴィア]]を包囲する。これに対してシャルル3世は、カール5世とともに包囲軍を打ち破り、フランソワ1世を捕虜とした([[パヴィアの戦い]])。フランソワ1世はカール5世が王位を兼ねる[[スペイン]]に護送され、シャルル3世もそれを追う形でスペインへ向かったが、スペイン貴族からは主君を裏切った卑劣漢と見做された<ref>F.グイッチァルディーニ著、川本英明著『イタリア史Ⅷ』、太陽出版、2006年、P108</ref>。フランソワ1世は翌年に[[マドリード条約 (1526年)|マドリード条約]]を締結して釈放されるが、すぐに破棄して[[1527年]]に戦争を再開する。これに対してカール5世は、シャルル3世を[[ローマ]]に派兵することで、フランソワ1世と同盟を結んだ[[教皇庁]]への懲罰に出た。シャルル3世は各地で教皇軍を蹴散らした後にローマを包囲し、自ら陣頭に立って指揮を執っていたが、梯子に上っているところを狙撃されて落命した。