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'''ヤン・ファン・リーベック'''(Johan Anthoniszoon "Jan" van Riebeeck、[[1619年]][[4月21日]] - [[1677年]][[1月18日]])は[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]の[[植民地]]監督者であり、[[ケープ植民地]]を建設したことで知られる。
 
オランダの[[クレンボルフ]](Culemborg)で生まれ[[スヒーダム]](Schiedam)で育った。1639年に[[オランダ東インド会社]]に加わり、[[バタヴィア]]の外科医の助手などを務めた後、日本に訪れたこともある。ヴェトナムの[[トンキン]]での貿易の責任者も務めたが、私貿易を行い、その職を解任された。
父アンソニーは船を所有する船乗りで、北海貿易で富を得ていた。ヤン・ファン・リーベック自身は20歳で外科医となり、
助手として東インド会社付船中医。[[バタヴィア]]の外科医の助手などを務めた後、1639年に[[オランダ東インド会社]]に加わり、1638年、バタフィア([[ジャカルタ]])に赴任してからは商社マンとなる。1642年には、商業リサーチの仕事で[[長崎]][[出島]]に派遣される。ヴェトナムの[[トンキン]]での絹貿易に従事する貿易の責任者も務めたが、私貿易と不正蓄財により、その職を解任された。
1645年一時帰国する。
 
1651年に、南アフリカにオランダ入植地の建設を命じられ、オランダの東インド会社のケープタウン補給基地建設の指導官として再び海外へ派遣される。1652年4月6日に後のケープタウンの地に3隻の船舶、DrommedarisとReijgerとGoede Hoopを率いて上陸し、東インドとオランダの貿易航路の中継地を作った。
 
1652年から1662年の間マラッカ総督を務めた。ケープの司令官として、テーブル湾を港として整備し、果物や野菜を栽培し、[[コイコイ人]]から家畜を入手した。最初の砦は木材や土で作られた。現在のケープ・タウン城はファン・リーベックが南アフリカを離れた後の1679年に完成したものである。バタヴィアで没した。
 
ファン・リーベックは1652年12月17日、南アフリカで発見された最初の[[彗星]]C/1652 Y1について報じた。
小惑星(9239) [[ファン・リーベック (小惑星)|van Riebeeck]]はリーベックに因んで命名された。1940年から1993年まで南アフリカの[[紙幣]]にリーベックの肖像が用いられた。
 
リーベックが建設させたオランダ東インド会社の農園の一部は、カンパニー・ガーデンとして現在バラ園などのある市民の憩いの場所になっている。
==参考文献==
*アジア都市建築史 布野修司編著 昭和堂 4-8122-0316-3
==外部リンク==
*[http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/Gv-dRiebek.htm リーベック 1652 ケープ植民地建設]
 
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[[Category:1619年生]]
[[Category:1677年没]]
[[Category:都市の建設者]]
[[Category:オランダ領東インド]]
[[Category:オランダ東インド会社]]