「シャルル3世 (ブルボン公)」の版間の差分
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シャルルは武勇に秀でており、[[1515年]]の[[マリニャーノの戦い]]{{enlink|Battle of Marignano|a=on}}における功績により、[[フランス王国|フランス]]王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]によってフランス元帥{{enlink|Constable of France|Connétable de France}}に任じられた。また、[[ミラノ]][[総督]]にも任じられたが、フランソワ1世は間もなくシャルルを解任してフランスへ呼び戻した。
[[1521年]]に妻シュザンヌが死去すると、フランソワ1世の母でブルボン家の血を引く[[ルイーズ・ド・サヴォワ]]が相続権を主張した。ルイーズはブルボン公[[シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル1世]]の娘マルグリットと[[サヴォイア公国|サヴォイア公]][[フィリッポ2世・ディ・サヴォイア|フィリッポ
カール5世はシャルルにドイツ人とスペイン人の混成軍の指揮を委ね、シャルルは[[1525年]]の[[パヴィアの戦い]]ではフランソワ1世を捕虜にするなどの活躍を見せた。フランソワ1世はカール5世が王位を兼ねる[[スペイン]]に護送され、シャルルもそれを追う形でスペインへ向かったが、スペイン貴族からは主君を裏切った卑劣漢と見なされた<ref>グイッチァルディーニ著、川本英明訳『イタリア史VIII』(太陽出版、2006年)、P108</ref>。
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フランソワ1世は[[1526年]]にカール5世との間で[[マドリード条約 (1526年)|マドリード条約]]を結んで釈放されたが、帰国すると条約の不履行を宣言して翌[[1527年]]に戦争を再開した。カール5世はフランスと結んだ[[教皇]][[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]への報復のため、[[ローマ]]へシャルルを指揮官とする軍勢を侵攻させた。同年5月6日の教皇軍との戦闘において、シャルルは教皇軍を敗走させ、教皇は[[サンタンジェロ城]]に逃げ込んだ。シャルルの軍勢はローマを包囲し、シャルル自ら陣頭に立って指揮を執っていたが、梯子に上っているところを狙撃されて落命した。指揮官を失ったことから皇帝軍は統制を失い、[[ローマ略奪]]が引き起こされた。
シャルル3世の死によって、初代ブルボン公[[ルイ1世 (ブルボン公)|ルイ1世]]の長男[[ピエール1世 (ブルボン公)|ピエール1世]]の系統であるブルボン家の本流は断絶した。そのため、ルイ1世の四男[[ジャック1世 (ラ・マルシュ伯)|ラ・マルシュ伯ジャック1世]]{{enlink|James I, Count of La Marche|a=on}}の子孫である[[シャルル・ド・ブルボン (ヴァンドーム公)|ヴァンドーム公シャルル]]が新たにブルボン
== 脚注 ==
<references />
{{先代次代|[[ブルボン公]]|1505年 - 1527年<br><small>[[シュザンヌ・ド・ブルボン|シュザンヌ]]と共に<br>(1521年まで)</small>|[[シュザンヌ・ド・ブルボン|シュザンヌ]]|[[
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