「第2SS装甲師団」の版間の差分

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ソビエト侵攻の際、師団は[[中央軍集団]]の一員として、[[スモレンスク]]近傍の[[ヤルニヤ]]の戦い([[Battle of Yelnya]])や、モスクワ攻略作戦である[[モスクワの戦い|タイフーン作戦]]に参加した。[[1941年]]11月ドイツ軍の最高進出点である、ソビエトの首都まで数マイルの地点まで迫った。ソビエトの首都を視野に納める地点まで前進した時、天候の悪化と大きな損失とソビエトの冬季反攻により師団は押し戻された。多大な損失を被った後、師団は、前線から引き抜かれ、フランスへ送られた。師団の一部は東部戦線に残され、[[戦闘団|カンプフグルッペ]]・オステンドルフ (KG Ostendorff) の名前で呼ばれた。オステンドルフは[[1942年]]6月に師団の本体と合流した。1942年11月、師団の一部は、トゥーロンで、フランス艦隊の自沈を防ぐ試みに参加した。その後、師団は、装甲擲弾兵師団へ格上げされ、'''SS装甲擲弾兵師団ダス・ライヒ'''と改名された。
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-206-35, Schlacht um Kursk, Panzer VI (Tiger I).jpg|thumb|クルスクの戦いにおけるダス・ライヒ]]
[[1943年]]の初め、ダス・ライヒは[[ハルキウ|ハリコフ]]の正面の崩壊の危機にある戦区の補強に[[東部戦線]]に戻された。ハリコフの再占領後、ダス・ライヒは、他の師団とともに、[[クルスクの戦い]]に参加した。ダス・ライヒは、突出部の南側の攻撃を担い、40マイル前進したが、攻撃が中止され、他のSS師団とともに前線から引き抜かれた。師団は、その一部である[[戦闘団|カンプフグルッペ]] ダス・ライヒ(公式には、[[戦闘団|カンプフグルッペ]] ラマーディング (KG Lammerding) を[[東部戦線]]に残し、フランスに送られ、第2SS装甲連隊を加え、[[装甲師団]]に格上げされ、'''第2SS装甲師団ダス・ライヒ'''と改名された。再編成期間中、ダス・ライヒはフランスにおいて[[パルチザン]]掃討の任務を受けた。
 
[[1943年]]の初め、ダス・ライヒは[[ハルキウ|ハリコフ]]の正面の崩壊の危機にある戦区の補強に[[東部戦線]]に戻された。ハリコフの再占領後、ダス・ライヒは、他の師団とともに、[[クルスクの戦い]]に参加した。ダス・ライヒは、突出部の南側の攻撃を担い40マイル前進したが、攻撃作戦が中止され、他のSS師団とともベルゴロド前線から引き抜かれ後退した。師団は、その一部である[[戦闘団|カンプフグルッペ]] ダ後、ミウ・ライヒ(公式には[[戦闘団|カンプハリコグルッペ]] ラマーディング (KG Lammerding) を[[東部、キエフと転線]]に残、フランスた。10月送られ、第2SS装甲連隊を加え、[[装甲師団]]に格上げされ、'''第2SS装甲師団ダス・ライヒ'''と改名された。再編成期間中、ダス・ライヒはフランスにおいて[[パルチザン]]掃討の任務を受けた
[[1943年]]終わりから[[1944年]]始めにかけ、ソビエトの冬季大反攻が行なわれ、中央軍集団の前線においてドイツ軍部隊が包囲されかかった。東部戦線に残したラマーディング戦闘団が、ソ連軍により包囲され、第2SS装甲軍団がこれを救出した。救出された戦闘団は既にフランスにいる師団の残りと合流するためにフランスに送られた。東部戦線に残こされた僅かなダス・ライヒの部隊は、[[戦闘団|カンプフグルッペ]] ヴァイディンガー (KG Weidinger) と名前を変え、[[プロスクーロフ]]と[[タルノポル]]を通って撤退した。
 
続く戦闘により連隊規模まで消耗した為、[[戦闘団|カンプフグルッペ]] ダス・ライヒ(Kampfgruppe SS-Panzerdivision Das Reich)又はカンプフグルッペ ラマーディング(KG Lammerding)と呼ばれた。[[1944年]]2月に一部を[[東部戦線]]に残し師団は前線から引き抜かれフランスの南部の村[[モントーバン]]に送られ、装備と人員の補充を受け再編成が行われた。残った部隊はカンプフグルッペ ダス・ライヒ又はカンプフグルッペ ヴァイディンガー(KG Weidinger)と呼ばれた。
 
3月、ソ連軍の春期攻勢によりカメネツ・ポドルスキーで[[カメネツ=ポドリスキー包囲戦|包囲]]され第2SS装甲軍団がこれを救出した。救出されたヴァイディンガー戦闘団は既にフランスにいる師団の残りと合流するためにフランスに送られた。
 
== ノルマンディの戦い・アルデンヌ攻勢 ==