「スピードシンボリ」の版間の差分

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{{競走馬|
|名 = スピードシンボリ|
|性 = [[牡馬|牡]]|
|色 = [[馬の毛色#黒鹿毛|黒鹿毛]]|
|種 = [[サラブレッド]]|
|生 = [[1963年]][[5月3日]]|
|死 = [[1989年]][[5月31日]]<br />(26歳没・旧27歳)|
|父 = ロイヤルチャレンヂャー|
|母 = スイートイン|
|母父 = ライジングライト|
|産 = [[シンボリ牧場]]|
|国 = {{JPN}}([[北海道]][[新冠町]])|
|主 = [[和田共弘]]|
|調 = 野平富久→野平省三([[中山競馬場|中山]])|
|厩 = 伊藤信夫|
|績 = 43戦17勝(うち日本国外4戦0勝)|
|金 = 1億6320万7050円<br />5000[[USドル|ドル]]|
}}
 
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==== 5歳-6歳(1967-1968年) ====
翌[[1967年]]は本格化を迎え、年明け初戦の[[アメリカジョッキークラブカップ]]、続く[[目黒記念]]と連勝する。迎えた春の[[天皇賞]]では、内埒沿いで粘るカブトシローをアタマ差交わして優勝し、[[八大競走]]初制覇を果たした。続く[[日経賞|日本経済賞]]も勝って4連勝となる。この時点で和田はスピードシンボリ海外遠征させること思い描い企図しており、この競走で野平に「海外へ行くつもりで前で競馬をするように」と指示を出している<ref>野平 91頁。</ref>。その後アメリカの国際招待競走[[ワシントンD.C.インターナショナル]]の招待馬に選出され、初の外遠征に臨んだ。結果は[[フォートマーシー]]の5着と善戦したが、帰国後の有馬記念では1番人気に支持されるも、遠征の疲労が残りもあっておりカブトシローの4着に敗れた。
 
年が明けた[[1968年]]も低迷し、春は重賞を3戦するもことごとく着外(4着以下)に敗れ、春のグランプリ・[[宝塚記念]]を待たず休養に入る。9月に復帰すると後は復調を見せ、オープン競走2戦と[[アルゼンチン共和国杯|アルゼンチンジョッキークラブカップ]]利したが、3年連続出走となった有馬記念では[[リュウズキ]]の3着と敗れた。
 
==== 7歳-8歳(1969-1970年) ====
1969年の初戦、アメリカジョッキークラブカップでは菊花賞優勝馬[[アサカオー]]の3着に敗れるが、続く目黒記念、ダイヤモンドステークスを連勝アルゼンチンジョッキークラブカップでは[[メジロタイヨウ]]にハナ差及ばなかったものの、陣営は再び海外ヨーロッパ遠征を決める。まずイギリスに渡り、初戦の[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]でパークトップの5着に入った。しかしフランスに移動しての[[ドーヴィル大賞典]]ではジャカオの10着、[[凱旋門賞]]では24頭中11着以下<ref group="注">優勝はレヴモス。なお当時は11着以下は公式記録が残らないため正確な着順は不明。</ref>の成績と、優勝することでき成らなかった。帰国後は有馬記念出走を予定していたが、長期遠征による衰弱が著しく、ここで一旦は引退も検討された<ref>木村 239-240頁。</ref>。しかし放牧に出された先で精気を取り戻し、現役続行が決定。当初の予定通り有馬記念に出走した。当日は6番人気と低い評価だったが、この年の菊花賞優勝馬[[アカネテンリュウ]]との競り合いをハナ差制し、4度目の挑戦にして初の有馬記念優勝を果たした。
 
翌8歳シーズンも現役を続行する<ref group="注">この年に中央競馬会が外国馬招待競走を計画しており、その競走に出走させるためであったが、招待競走は結局実現しなかった。(野平 132頁)</ref>。年明け初戦のアメリカジョッキークラブカップを日本レコードタイムで制し勝利続くアルゼンチンジョッキークラブカップ2着を経て出走した[[宝塚記念]]を再度に出走。レコードタイムで優勝し、健在をアピールした。続く日本経済賞3着の後に休養に入り、秋は[[毎日王冠]]を2着と好走。続く[[京都大賞典|ハリウッドターフクラブ賞]]で不得手の道悪馬場に殺されての7着として、史上初の5年連続出走となる有馬記念を迎えた。当日は、前年ハナ差で退けたアカネテンリュウが1番人気、スピードシンボリはこの年秋の天皇賞優勝馬[[メジロアサマ]]に次ぐ3番人気であった。
 
道中は最後方を進み、第3コーナーから第4コーナーにかけて一息に位置を上げていくと<ref>このレースにおいて野平は「直線で最後方からの差し切り勝ち」を構想していたが、第3コーナーで開いたスペースに入れたところ、そのままスピードアップして直線手前で先頭に立ってしまったという。(『優駿』 2000年3月号 48頁)</ref>、直線入り口で先頭を行く[[アローエクスプレス]]を交わして先頭に立ち、った。最後の直線ではアカネテンリュウと当年の菊花賞馬[[ダテテンリュウ]]の猛追を凌ぎ、1着で入線。史上初の有馬記念連覇を達成した。8歳馬による八大競走制覇も史上初の快挙であり、同齢で[[グレード制|GI級競走]]に優勝する馬は、1998年に天皇賞(秋)で優勝した[[オフサイドトラップ (競走馬)|オフサイドトラップ]]まで28年間現れなかったが、[[<ref group="注">2009年]]の天皇賞(秋)において[[カンパニー (競走馬)|カンパニー]]がそれを上回る9歳(現表記だと8歳(旧9歳)で制覇の勝利を収めた。</ref>。この競走において野平は「直線で最後方からの差切り勝ち」を構想していが、第3コーナーで開いたスペースに入れたところ、そのままスピードアップして直線手前で先頭に立ってしまったという<ref>『優駿』 2000年3月号 48頁。</ref>
 
の競走を最後に競走馬を生活から引退。千葉県のシンボリ牧場本場で種牡馬となった。重賞通算12勝は、[[オグリキャップ]]、[[テイエムオペラオー]]と並ぶ中央競馬最多記録である。
 
=== 引退後 ===
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客観的には、43戦17勝うち着外(4着以下)が16回という成績は、勝率・[[連対率]]において他の顕彰馬と比較した場合凡庸なものであり、[[競馬評論家]]の[[大川慶次郎]]は自著の中で「他の顕彰馬と比べて酷い成績」と断じている<ref>大川 77頁。</ref>。しかし一方で、8歳シーズン一杯を走り、ピークを過ぎたと思われた引退レースにも優勝、有馬記念5年連続出走、重賞通算12勝、最高齢GI級競走勝利などの記録を作ったスピードシンボリは「無事是名馬の典型として顕彰馬となった<ref>大川 78頁。</ref>」(大川慶次郎)と評価されている。また、長期の海外遠征はもともと海外志向の強かった野平にとっては大きな糧となり、野平はその敗戦を通して「日本には何が足りないのか」「強い馬とはどういうことか」と自問したと述べている<ref>野平 120頁。</ref>。この時の経験が、国際的視野に立脚した野平独特の競馬観に大きく影響した。
 
この他、当時の一般ファンからの評価として、作家の[[浅田次郎]]が「スピードシンボリ号がいたからこそ、[[エルコンドルパサー]]<ref group="注">1999年にフランスで活躍した日本調教馬。凱旋門賞で僅差の2着と健闘した。</ref>もあるのだという歴史を知って欲しい」「種牡馬となることを急ぐよりも競走馬としての使命を全うした、ファンとしては誠に感謝に堪えぬ名馬であった」と賞している<ref>『優駿』44頁。</ref>。2000年に[[日本中央競馬会]]が行った名馬選定企画「[[20世紀の名馬Dream Horses2000]]」では、ファン投票によって第33位に選出された。
 
== 血統表 ==
{{競走馬血統表|
|name = スピードシンボリ|
|inf = ([[ロイヤルチャージャー系]])/)/ [[ゲインズバラ_(競走馬)|Gainsborough]]4・5×4・5=18.75%、[[ファラリス|Phalaris]]5×5=6.25%、[[ハイペリオン (競走馬)|Hyperion]]3×4=18.75%(母内)、Manna4×5=9.38%(母内)、Buchan5×5=6.25%(母内))|
|f = *ロイヤルチャレンヂャー<br />Royal Challenger<br />1951 [[馬の毛色#栗毛|栗毛]]|
|m = スイートイン<br />1958 [[馬の毛色#鹿毛|鹿毛]]|
|ff = [[ロイヤルチャージャー|Royal Charger]]<br />1942 栗毛|
|fm = Skerweather<br />1936 鹿毛|
|mf = *ライジングライト<br />Rising Light<br />1942 鹿毛|
|mm = *フィーナー<br />Feenagh<br />1949 [[馬の毛色#黒鹿毛|黒鹿毛]]|
|fff = [[ネアルコ|Nearco]]|
|ffm = [[サンプリンセス|Sun Princess]]|
|fmf = Singapore|
|fmm = Nash Light|
|mff = [[ハイペリオン (競走馬)|'''Hyperion''']]|
|mfm = Bread Card|
|mmf = Orthodox|
|mmm = Sempronia|
|ffff = [[ファロス (競走馬)|Pharos]]|
|fffm = Nogara|
|ffmf = [[ソラリオ|Solario]]|
|ffmm = Mumtaz Begum|
|fmff = [[ゲインズバラ (競走馬)|'''Gainsborough''']]|
|fmfm = Tetrabbazia|
|fmmf = Galloper Light|
|fmmm = Polite|
|mfff = '''Gainsborough'''|
|mffm = [[シリーニ|Selene]]|
|mfmf = [[マンナ|Manna]]|
|mfmm = Book Debt|
|mmff = '''Hyperion'''|
|mmfm = Queen Christina|
|mmmf = Colombo|
|mmmm = Glenabatrick [[ファミリーナンバー|F-No.]][[16号族|16-h]]|
}}
母はイギリスからの[[持込馬]]で、競走馬時代は10戦2勝。ハイペリオンの2×3という強度の[[インブリード|近親交配]]で生まれていたため、比較的異系の血統であるロイヤルチャレンヂャーがその交配相手に選ばれた<ref>木村 229-230頁。</ref>。父はイギリスで競走生活を送り10戦4勝。2歳時に[[ミドルパークステークス]]に優勝している。
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== 脚注 ==
{{Reflist|group="注"}}
{{Reflist|2}}