「筑波研究学園都市」の版間の差分

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== 暮らし ==
=== 旧住民と新住民 ===
筑波研究学園都市の建設に伴って研究者やその家族が移り住んできたが、移転初期の頃は未舗装の道路も多く、商業施設もまばらであるなど、移住前との生活環境の変化に惑う人たちも多かった。また、地元の人たちは、学園都市建設に反対した人も多く、ことばや生活習慣の違う学園地区住民になにかと反発があった。このため、新来者は「新住民」、在来住民は「旧住民」と呼ばれ、第二次大戦中の疎開児童と村の子供たちのように互いに疎遠であった。当時の新やがて、公務員宅が集中的に建設された地域などで、地元最大の使命は成田空港農作物反面教師と扱う朝市や各種催、と物も開催されるようなり少しずつ交流が始まった。[[1981年]]ら開催されている「[[まつりつ旧住民ば]]」は、今ではつくば市最大心を解きほぐし祭りとなっ融和し研究学園都市を軌道に乗せことであった
やがて、公務員住宅が集中的に建設された地域などで、地元の農作物を扱う朝市や各種催し物も開催されるようになり少しずつ交流が始まった。[[1981年]]から開催されている「[[まつりつくば]]」は、今ではつくば市最大の祭りとなっている。
 
女性に対する男性の比率は全国平均に比べ高い。とはいえ、[[#田園都市]]で後述するように、研究機関の職員は男性の単身赴任が多かった筑波研究学園都市建設当初に比べると、家族で定住することが増えるにしたがって、男女比の均等化は進んでいる。(国勢調査によると、1980年は108.3%、2005年は105.8%)
1980年ごろに公的研究機関の移転が終了し、移転研究機関の職員の定住が進んだ。しかし移転前に結婚していた職員はまだ単身赴任が多く、この頃の人口の男女比は現在以上に男過剰のアンバランスであった。
 
<!--1990年代ごろには新住民が多数になって珍しい存在でなくなり、また、新旧住民の間の結婚なども進んで、現在では新住民・旧住民ということは表面には上らなくなっている。しかし、新旧住民の融和のために努力した初期の住民たちの努力に現在の住民たちは感謝の気持ちを忘れてはならない。(←融和が進んだ今でも区別するひともいますよ。もっとも、そうだという根拠もそうでないという根拠もない以上、書くべきじゃないと思います。ついでに言うと、「忘れてはならない」というのは主観的表現なので、ウィキペディアにはなじまないですよ。)-->
その後、移転後に結婚した職員は家族でつくばに住むことが多く、80年代なかばから一挙に新住民人口が増大した。
また、科学万博以後の民間企業の研究機関の移転によりさらに新住民人口は増大し、人口のさらなる増加と男女比のバランス化が進んだ。(それでもつくば市は今も男性が女性よりもかなり多い)
 
1990年代ごろには新住民が多数になって珍しい存在でなくなり、また、新旧住民の間の結婚なども進んで、現在では新住民・旧住民ということは表面には上らなくなっている。しかし、新旧住民の融和のために努力した初期の住民たちの努力に現在の住民たちは感謝の気持ちを忘れてはならない。
 
=== 外国人研究者 ===