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[[武州]][[多摩郡]]小山村の名主[[島崎休右衛門]]の5男として生まれ、[[文化]]8年([[1811年]])、20歳で[[近藤三助]](天然理心流剣術2代目)の弟子となり、[[天保]]元年([[1830年]])に流派を継いで、近藤の姓を名乗る。
 
天保10年([[1839年]])、江戸市谷甲良屋敷移転、[[試衛館]]を開設。[[嘉永]]2年([[1849年]])、宮川勝五郎(後の近藤勇)を養子に迎え、島崎の姓を与える。[[文久]]元年([[1861年]])に勇の4代目襲名が終わると、名を周斎と改めて隠居生活に入った。以前から試衛館に出入りしていた[[土方歳三]]には、よく小遣いをやっていたと言われている。
 
近藤勇らが[[浪士組]]として京都へ出立した後、[[中風]]を患い病床に伏した。新選組局長を務めていた近藤は、なかなか見舞うことができなかったが、[[池田屋事件]]後の[[元治]]元年([[1864年]])10月、隊士募集の名目で帰郷を果たした。
 
慶応3年(1867年)、近藤はじめ新選組全員が[[幕臣]]取り立てとなったそのおよそ4ヶ月後の10月、四谷舟板横町移転したばかりの牛込廿騎組屋敷の寓居にて病死。周斎は、「勇のおかげで大名のような生活ができる」と言っていたという。享年76。
 
[[Category:幕末徳川側人物|こんう しうすけ]]
[[Category:天然理心流剣術|こんうしうすけ]]
{{生没年|こんうしうすけ|1792年|1867年}}