「太穆竇皇后」の版間の差分

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李淵の母の元貞太后は老いて病となったが、性格が気難しく、李家の夫人たちはみな恐れて、介護しようとしなかった。竇夫人ひとりだけがつつましく元貞太后に孝事して、自分の着替えもせずに付き添った。竇夫人は文章が得意で、文体は雅であった。また書をよくし、李淵と書をならべたとき、世の人は論評することができなかったという。
 
李淵が[[煬帝]]の下で扶風太守となったとき、多くの駿馬を蓄えていた。竇夫人は「上は馬好きでいらっしゃいます。どうして献上なさらないのですか?いたずらにとどめていても罪を得るばかりで、無益でありましょう」と言った。李淵は聞き入れず、はたして譴責を受けた。竇夫人は涿郡で亡くなり、年は四十五であった。李淵はのちに隋の政治が乱れるのを見て、竇夫人の言葉を思い出し、自らの安泰を計るため、しばしば鷹や犬の変わった種類を献上した。煬帝は喜んで、李淵を将軍に抜擢した。李淵は泣いて「早くおまえたちの母の言うことを聞いていれば、もっと長くこの官に居れたものを」と諸子に言った。李淵が帝位につくと、彼女の葬園を寿安陵とし、[[謚]]を穆とした。のちに[[献陵]]に改葬され、太穆皇后と追尊された。 [[上元 (唐高宗)|上元]]年間、太穆神皇后と増諡された。上述の通り戦略家としての素養はあったものの、彼女の死後、子供達が帝位を巡って起こした[[玄武門の変]]を未然に止められるだけの母親としての力量は不足だった。
 
==子女==