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[[日本統治下の朝鮮|朝鮮]]・[[平安南道 (日本統治時代)|平安北道]][[平壌府]](現:[[朝鮮民主主義人民共和国]][[平壌|平壌直轄市]])に生まれる。
 
[[朝鮮総督府鉄道|朝鮮鉄道]]の社員だった父に従って[[朝鮮半島]]を転々と移り住むが、[[釜山広域市|釜山]]で終戦を迎え、[[三重県]][[四日市市]]に[[引き揚げ|引き揚げる]]。中学に編入後、[[三重県立神戸高等学校]]に進学するも、四日市市馳出に戻り[[三重県立四日市高等学校]]を卒業。浪人生活を経て[[東京大学]]に入学し、文学部仏文科に進む。在学中に演劇に熱中し、[[俳優座]]養成所に第5期生として入所する。同期に[[平幹二朗]]がいる。
 
1955年、大学卒業とともに[[日活]]に入社。助監督として[[舛田利雄]]、[[蔵原惟繕]]らにつく。同時に脚本の執筆を始め、[[三島由紀夫]]の原作による蔵原惟繕監督作品『[[愛の渇き]]』(1967年)において脚本を担当(藤田繁矢名義)。この作品で[[日本シナリオ作家協会]]シナリオ賞を受賞した。同時期に監督に昇進し、『[[非行少年 陽の出の叫び]]』(1967年)で監督デビュー。この作品では[[日本映画監督協会新人賞]]を受賞した。1968年にはドキュメンタリー『[[にっぽん零年]]』(公開は2002年)製作に参加する。その後、名前を藤田繁矢から藤田敏八に変え、「非行少年」シリーズ、「野良猫ロック」シリーズに続いて、代表作のひとつである『[[八月の濡れた砂]]』(1971年)を発表。しかし、この直後、日活は[[ロマンポルノ]]路線に転換することになる。