「横瀬成繁 (室町時代)」の版間の差分

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父と共に[[岩松家純]]の重臣として活動し、[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])の[[下野国|下野]]攻めにも参戦している。家純の孫・[[岩松尚純|尚純]]と家純の和解にも尽くし、岩松氏の後継者に迎え入れた。[[長享]]2年([[1488年]])の父の死により家督を継いで岩松氏執事となった(但し、国繁は存命であり、家督を継いだのは[[明応]]3年([[1494年]])とも言われ、その場合は隠居した事になっている)。
 
明応4年([[1495年]])、尚純とその父・[[岩松明純|明純]]が[[長尾房清]]の支援で[[新田金山城|金山城]]を攻め込むが、成繁は金山城を死守、[[古河公方]][[足利成氏]]の仲介により和議を結んだ。この結果、尚純は隠居、子の[[岩松昌純|昌純]]が岩松氏当主となり、成繁が権力を握った。
 
[[文亀]]元年([[1501年]])に死去、子の景繁が継いだ。法名は義山宗忠居士。墓は[[群馬県]][[太田市]]の[[金龍寺 (太田市)|金龍寺]]。