「足利高基」の版間の差分

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'''足利 高基'''(あしかが たかもと、[[文明 (日本)|文明]]17年([[1485年]]) - [[天文 (元号)|天文]]4年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]([[1535年]][[11月3日]])、在位[[1512年]] - 1535年)は3代目[[古河公方]]。[[足利政氏]]の長男。弟に[[足利義明|義明]]。妻は[[宇都宮成綱]]の娘。子に[[足利晴氏|晴氏]]、[[上杉憲寛]]。[[明応]]4年([[1495年]])に[[元服]]して、[[征夷大将軍|将軍]]足利義高(後の[[足利義澄|義澄]])の一字を受けて「高氏」と名乗るが、[[室町幕府]]初代将軍[[足利尊氏]]の初名と被ってしまうため、後に初代[[鎌倉公方]][[足利基氏]](尊氏の子)の一字により「高基」と改名した。
 
[[上杉氏]]の方針等をめぐって、父と不和になって対立する([[永正の乱]])。一時、[[宇都宮氏]]のもとに身を寄せたこともある(ちなみに、この高基と政氏の争いのさなかに、高基の弟・[[足利義明]]は謀反を起こして独立し、[[小弓公方]]となる)。
 
その後、1512年に古河公方として後を継ぎ、[[扇谷上杉家]]や[[山内上杉家]]と対抗するために[[北条氏綱]]と同盟を結んで{{要出典}}、勢力拡大に奔走した。後に山内上杉家とは和解して次男[[足利上杉憲寛|晴直]](上杉憲寛)を同家の養子としている。晩年には息子の[[足利晴氏|晴氏]]とも対立している。
 
{{先代次代|[[古河公方]]|第3代|[[足利政氏]]|[[足利晴氏]]}}