「ムシチュイ2世」の版間の差分

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[[ファイル:MonumentSeal of MsciwójMsciwoj II at Adam Mickiewicz Park inof OliwaPomerania.jpggif|thumb|[[オリヴァ]]の公園にあるムシチュイ2世の石像[[印璽]]]]
'''ムシチュイ2世'''([[ポーランド語]]:Mściwój II / Mszczuj II;[[ドイツ語]]:Mestwin II.、1220年頃 - 1294年)は、[[ポモジェ]]東部の[[シフィエチェ]](シュヴェッツ)公(在位1266年 - 1294年)。[[グダニスク]]公[[シフィエントペウク2世]]の息子として生まれ、父の死とともにシフィエチェ公となり、1271年からはグダニスク公を兼ねた。叔父のルビシェヴォ公[[サンボル2世]]の死後、ムシチュイ2世は[[ポメレリア]]地方の全域を支配下に収めることができた。
 
ムシチュイ2世には男子の相続人がなかったため、アルンスヴァルデの和約が存在する以上、その遺領はブランデンブルクに渡ると思われていた。しかし、ムシチュイは1282年にケンプノの和約を結び、遠縁にあたる[[ポーランド]]の[[ヴィエルコポルスカ]]公[[プシェミスウ2世]]を全領土の相続人に指名した。この結果、ブランデンブルクとポーランドとの関係は敵対的なものになり、1308年のドイツ騎士団による[[ドイツ騎士団のダンツィヒ占領|グダニスク占領]]を招いた。
 
ムシチュイは1275年にクヤヴィ公[[カジミェシュ1世 (クヤヴィ公)|カジミェシュ1世]]の未亡人[[エウフロジナ・オポルスカ|エウフロジナ]]と結婚したが、1288年に彼女と離婚して元修道女の愛人スリスワヴァと再婚している。
 
== 参考文献==