「多田氏」の版間の差分

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== 概要 ==
[[平安時代#平安中期|平安時代中期]]に[[摂津国]][[川辺郡]]多田の地に[[武士団]]を形成した[[源満仲]]が「多田」を号したことから始まる。その後、多田の地は満仲の長子であった[[源頼光|頼光]]とその子・[[源頼国|頼国]]が継承し、頼国の五男・[[源頼綱|頼綱]]以降、[[嫡流]]が「多田」を号した。
 
頼綱以降では[[馬場氏]]族や[[山県氏]]族といった[[庶家|庶流]]を輩出しており、[[嫡流]]にあたる多田氏の系統は[[清和源氏]]一族の最も古い所領である多田の地を200年余りに渡って相続したが、[[治承・寿永の乱|源平争乱期]]に[[惣領]]であった[[多田行綱]]が[[源頼朝]]に疎まれ[[多田荘]]の所領を没収されると衰退し、以後一族の動向を伝える史料は断片的なものとなっている(行綱以前については[[多田源氏]]の項目も参照)。
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多田氏の衰退後、『[[群書類従]]』収録の「多田系図」などによると[[源兼綱]]の子である[[源頼兼]](『尊卑分脈』では[[源頼政]]の次男とされる)が多田氏を再興し、[[伊豆国]]を地盤として[[鎌倉幕府]]とも繋がりを持ったとされる。この流れを伊豆多田氏と呼び、室町期には摂津と伊豆に領土を安堵されるが、[[永正]]年間([[1504年]] - [[1520年]])の将軍家家督争いで[[足利義稙]]側に付き没落したという。しかし、この伊豆多田氏については系譜や事跡に不明な点が多く実像がはっきりしていない。
 
[[鎌倉時代]]初期の[[多田経実]]に始まり[[大和国|大和]]の[[国人]]([[衆徒]])として存続した多田氏は源満仲の後裔と伝え代々[[佐比山城]]に拠ったが、別族とも取れる記述が見られるなど系譜が明確でない。また、[[大江広元]]の舅であった[[多田仁綱]]は『安中坊系譜』によれば[[摂津国]]多田郷吉川村の出身で、[[源満仲]]の弟[[源満重|源満成]]の長男、[[源満信|左近将監満信]]の後胤であるという。仁綱の娘は広元との間に[[大江親広]]([[寒河江氏]]の祖)を儲けているが、仁綱の名は『[[尊卑分脈]]』等の系図に見えていない。
 
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には、[[多田頼貞]]、[[多田貞綱]]<ref>貞綱の活動した陸奥国では同じく南朝方の武将として[[多田左近将監]]、[[多田三郎左衛門尉]](いずれも諱は不詳)などの名もみえている。</ref>、[[多田義基]]などが[[南朝 (日本)|南朝]]方の武将として活動しているが、その明確な系譜は未詳である(『尊卑分脈』には[[多田頼盛]]の三男[[能瀬高頼|高頼]]の後裔に頼貞、貞綱の名が見える)。
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== 参考文献 ==
*『[[姓氏家系大事典]][[大田亮]] [[角川書店]] [[1963年]]
*『戦国人名事典』[[阿部猛]] [[西村圭子]] [[新人物往来社]] [[1990年]]
 
== 関連項目 ==
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[[category:日本の氏族]]
[[Category:摂津源多田氏|*たたし]]
{{japanese-history-stub|たたし}}