「北帰行」の版間の差分

 
==概要==
作者 宇田博は奉天一中で四修で[[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高等学校]](一高)の受験に失敗、[[建国大学]][[予科]]([[満州国]][[長春|新京]])に入学したが半年で退学となり、昭和15年 ([[1940年]](昭和15年)、開校したばかりの旧制旅順高等学校に入学した。宇田は同校の第一回寮歌 『薫風通ふ春五月』(村岡楽童 作曲)を作詞している。しかし戦時体制下の新設校だった同校に、宇田の望んだ[[バンカラ]]で自由な校風は存在せず、彼は常々生活指導の教官に目を付けられていた (もっとも、宇田自身はバンカラタイプではなかった。280ヶ条もあった校則に常々反発していた旨を述懐している。[[#書籍]] 『大連・旅順はいま』 138頁-142頁など)。
 
1941年(昭和16年(1941年)5月、宇田はメッチェン(女の子)とデートして戻ったところを教官に見つかり、"性行不良"で退学処分となった。彼が同校への訣別の歌として友人たちに遺した歌が、この '''北帰行''' である。そのため、同校の正式の寮歌ではないが、広義の寮歌として歌われてきた。宇田はその後 [[内地]]に渡り、旧制一高を卒業した。彼は[[東京大学]]を経て、東京放送(TBS、現・[[東京放送ホールディングス]](TBS) / [[TBSテレビ]]・[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]])に入社し、後に同社の常務・監査役を歴任している。
 
旅順高等学校関係者によれば、この歌は自由への解放を歌い上げたものであり、単なる流浪の歌として理解されるべきではないとされるが、これは歌詞を五番まで全て歌った場合のものであるといえる。省略されることの多い完全版の歌詞では、満州各地の学園で体験した強圧的な体制への憤懣と、決して容れられることのない己の存在を嘆いた宇田個人の心情が率直に歌われているからである。
 
歌詞に明確な学校当局への反抗がこめられているため、宇田が去った後の旅順高校では北帰行を歌うこと自体を禁じようとする動きも見られたが、一部のリベラルな教師たちの擁護によって、禁止曲となることは免れたという。
 
==継承==