「丹党」の版間の差分

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'''丹党'''(たんとう)は、[[平安時代]]後期から[[鎌倉時代]]にかけて[[武蔵国]][[入間郡]]・[[秩父郡]]・および[[児玉郡]]西部(旧[[賀美郡]])にわたって繁栄した[[武蔵七党]]の一つである武士団。
 
== 出自 ==
第28代[[宣化天皇]]の子孫である[[多治比氏]]の後裔を称し、各種史書<ref>『武蔵七党系図』『井戸葉栗系図』(いずれも『系図綜覧』所収)、『[[大日本史]]』、『[[寛永諸家系図伝]]』、『[[寛政重修諸家譜]]』など。</ref>でもいずれも宣化天皇裔としている。一方で、これらの史書上に掲載されている系図の記載内容が史実と矛盾する<ref>『武蔵七党系図』では、[[多治比嶋]]の子家範(『井戸葉栗系図』では弟で家野里とする)、その子家隆(同じく家鷹)から始まる系図を記すが、家範(家野里)を[[推古天皇|推古朝]]の人、家隆を[[皇極天皇|皇極朝]]の人としており、[[文武天皇|文武朝]]の大臣である嶋の子孫とするには年代的に矛盾。また、『丹治氏青木系図』(『寛永諸家系図伝』所収)では、宣化天皇の皇子に檜隈皇子その子に家範とし、家範が[[継体天皇|継体朝]]で[[宿禰]]姓を賜与されたとの記述があるが、宿禰姓は[[天武天皇|天武朝]]に[[八色の姓]]として定められた[[カバネ|姓]]の一つであり、やはり年代的に矛盾する。さらに、「家範」「家隆」という名前も[[飛鳥時代]]にそぐわない。なお、『寛政重修諸家譜』(657巻,丹治氏条)では、『寛永諸家系図伝』所収の系図を信用できないと断じている。</ref><ref>丹党の祖武信の父に[[多治比県守]]の玄孫多治今継を充てる系図もある(『勅使河原氏之系譜』(『埼玉叢書』第4 所収))</ref>ことから、後世の仮冒とする説も多く見られる。[[太田亮]][[姓氏家系大辞典]]』では、宣化天皇の[[部民制#品部、部曲・民部、子代・名代・御名代|御名代]]の一つ檜前舎人の[[伴造|伴造家]]であった[[檜前舎人直]]<ref>「ひのくまのとねり(あたい)」と読み、[[出雲氏]]族で[[武蔵国造]]家の一族とされる。</ref>の後裔とする説<ref>太田亮はこの説の根拠として、以下3つの理由を挙げている。①丹党の勢力範囲は[[賀美郡]]を中心としたが、これは檜前舎人の分布領域(賀美郡・[[那珂郡]])と一致している。②丹党が宣化天皇裔を称していることは、檜前舎人直が宣化天皇の御名代である檜前舎人の[[伴造|伴造家]]であることと関連がある。③『丹治氏青木系図』において、丹党の祖として各種史書では見られない檜隈皇子をあげているのは、丹党の出自が檜前(=檜隈)舎人氏であることの反映である。</ref>、[[鈴木真年]]は丹党の[[氏神]][[高野御子大神|高野明神]]<ref>『新編武蔵風土記稿』賀美郡長浜下郷村丹生明神社条など</ref>をまつる[[丹生都比売神社]]の[[社家]](天野祝家)を[[世襲]]した[[大丹生直]]<ref>「おおにう(あたい)」と読み、[[紀伊国造|紀国造家]]の一族とする。</ref>の後裔とする説<ref>『華族諸家伝』大田原勝清条</ref>、をそれぞれあげている。
 
== 概要 ==
== 参考文献 ==
*『武蔵七党系図』
*[[太田亮]][[姓氏家系大辞典]]』[[角川書店]],[[1963年]]
*[[宝賀寿男]][[古代氏族系譜集成]][[古代氏族研究会]],[[1986年]]
 
== 関連項目 ==
{{DEFAULTSORT:たんとう}}
[[Category:丹党|*]]
[[Category:武蔵七党]]
[[Category:武蔵国|党たんとう]]
[[Category:関東地方の歴史]]
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