「岡崎義実」の版間の差分

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| 死没 = [[正治]]2年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]([[1200年]][[8月2日]])
| 別名 = 四郎、平四郎、三浦悪四郎
| 墓所 = [[神奈川県]][[平塚市]]岡崎 相模[[岡崎城址]]
| 官位 =
| 戒名 =
== 生涯 ==
=== 頼朝挙兵 ===
[[治承]]4年([[1180年]])[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]に[[源義朝|義朝]]の遺児の[[源頼朝|頼朝]]が[[伊豆国]]で挙兵を決めると嫡男の[[佐奈田義忠|与一義忠]]とともに直ちに参じた。挙兵を前に義実は源氏の御恩のために身命を賭す武士として、特に頼朝の部屋に呼ばれて合戦について相談され「未だに口外していないが、汝だけを頼りにしている」との言葉を受け、感激して勇敢に戦うことを誓った。実は、このように密談をしたのは義実だけではなく、[[工藤茂光]]、[[土肥実平]]、[[宇佐美助茂]]、[[天野遠景]]、[[佐々木盛綱]]、[[加藤景廉]]も同じことを頼朝から言われている。
 
ただ、義実・義忠父子が特に頼みにされていたのは事実で、挙兵前にあらかじめ土肥実平と伴に北条館へ参じるよう伝えている。
[[文治]]4年([[1188年]]))[[8月 (旧暦)|8月]]、義実は相模国[[波多野本庄]]北方(神奈川県[[秦野市]])の所領を巡って[[波多野義景]]と訴訟になり、義実は敗訴し、罰として[[鶴岡八幡宮]]と[[勝長寿院]]での100日間の宿直を命じられた。結局、この罪は翌[[9月 (旧暦)|9月]]に義実の郎党が[[箱根山]]で山賊の[[字王藤次]]を捕らえたことで許されている。
 
文治5年([[1189年]])の[[奥州合戦|奥州藤原氏]]討伐([[奥州合戦]])に[[岡崎惟平|先次郎惟平]]とともに従軍。
 
=== 晩年 ===
[[Category:平安時代の武士]]
[[Category:鎌倉時代の武士]]
[[Category:三浦岡崎氏|よしさね]]
[[Category:1112年生]]
[[Category:1200年没]]
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