「佐奈田義忠」の版間の差分

編集の要約なし
父の岡崎義実は[[三浦義明]]の弟で[[相模国]][[大住郡]]岡崎([[神奈川県]][[平塚市]]岡崎)に住した。[[中村氏 (相模国)|中村氏]]と血縁を持ち、その一族で頼朝の重臣となる[[土肥実平]]と関係が深い。嫡男の義忠は岡崎の西方の真田(佐奈田)の地(平塚市真田)を領した。
 
治承4年(1180年)8)[[8 (旧暦)|8月]]8、父岡崎義実とともに頼朝の挙兵に参じ、[[山木兼隆]]館襲撃に加わる。
 
[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]、頼朝の軍勢300余騎は[[大庭景親]]率いる[[平家]]方3000余騎と相模国[[石橋山]]で対陣した。
 
佐奈田義忠(与一)の奮戦は『[[平家物語]]』や『[[源平盛衰記]]』に詳しい。父義実の推挙により、頼朝は武勇優れる与一に「大庭景親と[[俣野景久]](景親の弟)の二人と組んで源氏の高名を立てよ」と先陣を命じた。
 
与一は討ち死にを覚悟し、57歳になる老いた[[郎党]]の[[文三家安]]に母と妻子の後事を頼もうとするが、家安は与一が2歳の頃から親代わりにお育てしたのだから最後までお伴をして討ち死にすると言い張り、与一もこれを許した。
石橋山の戦いは頼朝の大敗に終わり、頼朝は山中を敗走し、[[安房国]]へ逃れている。
 
頼朝が[[治承・寿永の乱]]で勝利し、[[武家政権]]をほぼ確立させた[[建久]]元年([[1190年]])[[1月20日 (旧暦)|正月20日]]、頼朝は[[三島大社|三島]]、[[箱根権現|箱根]]、[[伊豆山神社|伊豆山]]参詣の帰りに、石橋山の与一と文三の墓に立ち寄り、哀傷を思い出し涙を流したという。
 
与一の戦死した地には[[佐奈田霊社]](神奈川県[[小田原市]])が建てられている。与一が組み合っていたとき、[[痰]]がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えがあり、この神社は喉の痛みや[[喘息]]に霊験があるという。
{{DEFAULTSORT:さなたよしたた}}
[[Category:平安時代の武士]]
[[Category:三浦岡崎氏|よしたた岡崎氏]]
[[Category:1155年生]]
[[Category:1180年没]]
匿名利用者