「マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)」の版間の差分

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母方の又従兄であるザクセン公子アルベルト・カジミールと恋に落ちるが、無論当時の王族は政略結婚が通例であり、反対を受ける。しかし母マリア・テレジアだけは自身が恋愛結婚であったこともあり、そっと見守っていた。最も反対していた父フランツが1765年に死去したことで、翌1766年に結婚が認められた。アウグスト3世の六男であったアルベルト・カジミールには財産がなかったが、マリア・クリスティーナは莫大な持参金を与えられた上に[[チェシン公国|テシェン(チェシン)公国]]を、更には叔父[[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン|カール・アレクサンダー公子]]の死後に[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]]を夫婦で共同統治する権利を与えるという約束までした。夫の死で悲観に暮れていたマリア・テレジアは、愛娘の幸福な結婚にいくらか慰められたという。一方で、恋愛結婚を認められなかった妹[[マリア・アマーリア・ダズブルゴ|マリア・アマーリア]]が、嫁ぎ先で傍若無人な振る舞いをする原因にもなったという。
 
母マリア・テレジアの死後は、長兄[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]から夫ともども冷遇された。また、2人の間には子供も生まれず(マリア・テレジアはこのことを特に残念がっていた)、兄弟姉妹の間で一人だけ恋愛結婚をした彼女への天の報いだとさえ、一族内では見なされていた。
 
叔父カールと母が相次いで死去した1780年、約束通り夫とともに[[南ネーデルラント|ネーデルラント]]総督として任地に赴いたが、1789年には大規模な反乱に遭っている([[ベルギー合衆国]]を参照)。
 
母マリア・テレジアの死後は、兄[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]から夫ともども冷遇された。また、2人の間には子供も生まれず(マリア・テレジアはこのことを特に残念がっていたが、兄弟姉妹の間では一人だけ恋愛結婚をした彼女への天の報いだとさえ見なされていた)、弟[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]のはからいで、レオポルトの三男[[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール大公]]を養子とし、テシェン公位とネーデルラント総督の地位を継がせている。
 
{{Commonscat|Archduchess Marie Christine, Duchess of Teschen}}