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[[image:Pieter Willem Botha.jpg|thumb|right|ピーター・ウィレム・ボータ]]
 
'''ピーター・ウィレム・ボータ'''(若しくは'''ボタ'''、'''Pieter Willem Botha'''、[[1916年]][[1月12日]] – [[2006年]][[10月31日]])は、[[南アフリカ共和国]]の[[政治家]]。[[南アフリカ共和国]][[首相]](在任期間[[1978年]]から[[1984年]])、[[南アフリカの大統領|大統領]](在任期間[[1984年]]から[[1989年]])を歴任した。[[アパルトヘイト]](人種隔離政策)の完全撤廃と人種間の平等を求める国際世論に対して頑強に抵抗した。性格は頭脳明晰にして直情径行。[[通称]]は、'''PW'''または、[[アフリカーンス語]]で「'''大[[ワニ]]'''」を意味する'''Die Groot Krokodil'''。1943年に結婚したエリザ夫人との間に二人の息子、三人の娘がいる。
 
== 生い立ち ==
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== 政治的経歴 ==
[[1948年]]、国民党から国会議員に立候補し当選する(地盤は[[ケープ州]]東部)。この選挙で国民党を中心とするマラン四党連立政権は、アパルトヘイト政策を本格的に推進することとなる。[[1958年]]に発足した[[ヘンドリック・フルウールト]]政権では副内相に就任。[[1966年]]、[[バルタザール・フォルスター]]([[:en:B.J. Vorster|B.J. Vorster]])内閣で国防相に就任する。[[1972年]]には主要閣僚や警察庁長官らから成る「国家安全保障評議会]」を設置。同組織を通じ政治的影響力を強化すると同時に[[イスラエル]]との協力関係を通じ、核開発に踏み切ったのも同時期だとされる。[[1978年]]9月、フォルスターが辞任し、議会によって後継首相に選出された。ボータは保守派ではあったが、前任のフォルスター以上に政治家としてはプラグマティストであった。ボータは南アにおける白人政権を維持を図る一方で非白人以外の人種に対する自治権を考慮に入れた一種の連邦制に南アを再編する構想を持っていた。
 
[[1984年]]、[[立法]]・[[行政]]の両権を[[白人]](定数:178人、内任命議席が12)、[[カラード]](定数:85人)、[[インド]](定数:45人)系国民に分与し白人支配体制から「三人種体制」に移行、憲法改正により権限を強化した大統領(執行大統領)に就任する。[[1985年]]にはアパルトヘイト政策を成す、[[雑婚禁止法]]、[[背徳法]]の廃止に踏み切るものの、同政策の基幹3法([[原住民土地法]]、[[集団地域法]]等)の撤廃に関しては断固拒否した。[[1987年]]の総選挙では123議席を獲得し(任命議席を併せ133)支配体制を強化した。
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{{先代次代|{{Flagicon|南アフリカ}} [[南アフリカの大統領|大統領]]|第9代 : 1984 - 1989|[[マレー・フィリューン]]|[[フレデリック・ウィレム・デクラーク|F・W・デクラーク]]}}
 
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{{DEFAULTSORT:ほおた ひいたあ ういれむ}}
[[Category:南アフリカ共和国の大統領]]
[[Category:南アフリカ共和国の政治家]]
[[Category:反共主義者]]
[[Category:1916年生]]