「ロッキー・ジョンソン」の版間の差分

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[[1964年]]にプロレスラーとしてデビュー。バネのある身体から繰り出す華麗な空中殺法を武器に、[[アメリカ西海岸|西海岸]]、[[アメリカ合衆国南部|南部]]、[[WWE|WWF]]、[[五大湖]]地区などアメリカ各地の主要マーケットで、[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]の黒人トップスターとして数々のタイトルを獲得し、長く活躍した。特に[[ドロップキック]]の名手として知られる。ニックネームは'''"Soulman"'''。[[覆面レスラー]]の'''スイート・エボニー・ダイヤモンド'''('''Sweet Ebony Diamond''')としてファイトすることもあった。
 
[[1983年]]に[[ニューヨーク]]のWWFに参戦し、[[トニー・アトラス]]と黒人[[タッグチーム]]「'''ソウル・パトロール'''('''The Soul Patrol''')」を結成。同年[[11月15日]]に[[ザ・ワイルド・サモアンズ]]から[[WWE・世界タッグチーム王座|WWFタッグ王座]]を奪取している。その後も同王座を巡り、[[ディック・マードック]]&[[アドリアン・アドニス]]のノース・サウス・コネクションと抗争劇を展開した。WWF離脱後は[[ハワイ州|ハワイ]]でプロモーター兼ブッカーとして活動し、[[1991年]]に現役を引退。
 
来日を待望され、[[1970年]]に[[日本プロレス]]のNWAタッグリーグ戦に[[アーニー・ラッド]]との黒人強力コンビとして出場した。優勝候補の筆頭と見られていたが、チームワークに難があり、決勝進出を果たせなかった。その後もアメリカでは活躍を続け、[[1980年]]1月に[[新日本プロレス]]に10年振りの来日を果たす。しかし戦績は振るわず、[[北米タッグ王座]]挑戦を目前に控えた試合で[[スタン・ハンセン]]の[[ラリアット|ウエスタン・ラリアット]]の誤爆を受け負傷し、タイトル戦を欠場した。これが最後の来日となった。
 
日本とも縁の深いアメリカの繁栄マーケットで活躍したにもかかわらず、売れっ子で多忙だったこともあり来日回数はわずか2回と少なく、日本では実績を残すことができなかった。
 
[[2008年]]、 見事にWWE殿堂入りを果たした。プレゼンターは息子のザ・ロックである。
 
== 得意技 ==