「コンスタンディノス・ミツォタキス」の版間の差分

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'''コンスタンディノス・ミツォタキス''' ([[ギリシャ語]] '''Κωνσταντίνος Μητσοτάκης''', [[1918年]][[10月18日]] - )は[[ギリシャ]]の政治家。
 
== 経歴 ==
 
ミツォタキスは[[クレタ島]][[ハニア]]に生まれた。多くのギリシャの政治家と同様に彼も政治家一家の生まれであり、祖父と父は国会議員、[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]は叔父にあたる。青年期には[[ナチス]]のクレタ島占領に反対して[[レジスタンス運動]]に加わった。[[アテネ大学]]で法学と経済学を学んだ後、1946年に国会に当選した。
1981年の選挙で新民主主義党は[[アンドレアス・パパンドレウ]]率いる[[全ギリシャ社会主義運動]](PASOK)に敗北した。1984年にミツォタキスはNDの党首に就任し、その後10年に渡りパパンドレウとギリシャ政界を率いる事になった。1989年の選挙ではパパンドレウがクレタ銀行をめぐるスキャンダルに巻き込まれ、NDが第一党となった。数ヶ月前にPASOKにより改正されていた選挙法によって比例代表制がしかれていたため、NDは安定多数による政権を握る事ができなかった。議会の硬直化の後1990年4月に行われた選挙ではNDがかろうじて過半数を制し、ミツォタキスは首相に任命された。
 
ミツォタキスは政府の財政規模を小さくし、市民サービスの改善に取り組んだ。外交ではパパンドレウ時代に関係が冷え込んだ[[アメリカ]]との信頼関係の構築につとめ、1990年にはギリシャの首相として26年ぶりにアメリカを訪問した。[[北大西洋条約機構|NATO]]への再加入をはたし、[[トルコ]]との関係改善にも取り組んだ。
 
パパンドレウは政治家を裁く特別裁判Eidiko Dikastirioでかろうじて無罪となった。パパンドレウは、善隣外交を展開するミツォタキスが[[マケドニア]]、[[キプロス]]問題に関して弱腰すぎると批判し、党勢の回復を狙った。旧[[ユーゴスラビア]]のマケドニア共和国の名称を巡る問題に対し、国民は大きな関心を寄せ、1993年の選挙ではパパンドレウ率いるPASOKが勝利した。ミツォタキスは党首を辞任した。
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