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[[ファイル:The Death of Gaston de Foix in the Battle of Ravenna.jpg|thumb|300px|ラヴェンナの戦いにおけるガストン・ド・フォワの死([[アリ・シェフェール]]作、1824年、[[エルミタージュ美術館]])]]
'''ガストン・ド・フォワ'''('''Gaston de Foix, Duc de Nemours''', [[1489年]][[12月10日]] - [[1512年]][[4月11日]])は、16世紀初頭の[[フランス王国|フランス]]の将軍、[[ヌムール]]公。「イタリアの雷」(le foudre d'Italie)と呼ばれた。父[[ジャン・ド・フォワ (ナルボンヌ子爵)|ナルボンヌ子爵ジャン・ド・フォワ]][[フォワ]]伯[[ガストン4世 (フォワ伯)|ガストン4世]]と[[ナバラ王国|ナバラ]]女王[[レオノール (ナバラ女王)|レオノール]]の子)とであり、母マリー・ドルレアン[[オルレアン家|オルレアン公]][[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]の娘フランス王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]の姉)の子。「イタリアの雷」(le foudre d'Italie)と呼ばれたである。姉[[ジェルメーヌ・ド・フォワ|ジェルメーヌ]]は[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]の2番目の王妃となっている。
 
国王ルイ12世の甥であり、また王妃[[アンヌ (ブルターニュ女公)|アンヌ・ド・ブルターニュ]]の従弟でもあったガストンは、[[1511年]]21歳の若さでフランス軍の総司令官となり、[[カンブレー同盟戦争]](広義の[[イタリア戦争]])で活躍した。勇猛果敢な戦いりで知られ、フランス軍に数々の戦勝をもたらしたが、1512年4月11日に[[ラヴェンナの戦い]](1512年4月11日)で戦死した。フランス軍は戦闘には勝利したものの、総司令官の戦死によって士気が下がり、この勝利を戦略的に有効活用できないまま、結果的に退却を余儀なくされた。
 
フランス軍は戦闘には勝利したものの、総司令官の戦死によって士気が下がり、この勝利を戦略的に有効活用できないまま、結果的に退却を余儀なくされた。
 
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