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== 経歴 ==
妹の蕭元妃が[[天祚帝]]の妃となり、梁王
弟の蕭嗣先が将軍として、[[金 (王朝)|金]]の[[阿骨打|太祖]]の軍勢と戦って大敗してしまった。従来なら蕭嗣先は天祚帝から[[処刑|厳刑]]を受ける立場だったが、兄のとりなしで罪は問われなかった。以後から蕭奉先の専横もあり、遼の軍紀は腐敗にまみれて、対金との戦いで連敗を繰り返した。
[[1121年]]、蕭奉先は、妹の子の秦王を[[皇太子]]にする構想を練り出した。そのためには、天祚帝の嫡子で[[太子]]候補の晋王・[[耶律傲盧斡]]と遼の[[
そこで、蕭奉先は一案を浮かび、天祚帝に上訴した。彼は「余賭は、晋王・傲盧斡を擁立する陰謀の模様である」と讒言してしまった。天祚帝はまったく蕭奉先の言葉を疑わず、直ちに晋王、耶律余賭一味の鎮圧に動いた。
しかし、同年3月7日に天祚帝は親征したが、入來山で金に敗れ、[[燕京]]には戻らず[[長春]]に逃れた。間もなく西の[[山西]][[雲州|雲中]]の陰山に潜伏した。同17日、留守を預かった[[皇族]]の[[耶律大石]]は[[李処温]](かつて蕭奉先の推薦を受けた)とともに、天祚帝の従父[[耶律淳]]([[天錫帝]])を擁立し、天祚帝を「湘陰王」に降格して、「[[北遼]]」を建国してしまった。
6月に天錫帝が亡くなり、蕭奉先の甥で太子の秦王
同年5月に今度は、もう
『[[遼史]]』での蕭奉先評は「狭私滅公」(滅私奉公の反義語)と記されている。
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