「観世流」の版間の差分

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九世[[観世黒雪]]([[1566年]]〜[[1626年]])は、幼少より[[静岡]]で徳川家康に仕え、後に京都に進出して豊臣政権下で四座棟梁の一人として認められるものの、[[金春流]]を愛好した[[豊臣秀吉]]からは重用されなかった。[[1603年]]の[[江戸幕府]]開府とともに四座棟梁の筆頭として家康から重んじられるが、数年後、[[駿府]]を出奔して[[高野山]]で出家するという事件を引き起こす。後に帰参は認められるものの、十世左近重成に大夫職を譲り、事実上の蟄居状態が続いたと見られている<ref>『当代記』</ref>。[[1620年]]に[[元和卯月本]]と呼ばれる謡本百番の刊行を開始し、[[江戸時代]]における観世流隆盛の基盤を築いた人物として知られる。
 
近世期、観世流は幕府に抱えられる四座一流の筆頭とされ、幕末まで最大の流勢を誇った。宗家が十一世左近重清(重成の子)、十二世左門重賢(重清の子)、十三世織部重記(重清の甥)、十四世織部清親(重記の子)と相続する一方、黒雪の甥[[服部宗巴]]は座付のワキ方福王家に養子入して[[福王流]]五世を相続し、隠居後には京都に移って[[素謡]]教授を専門とし、以後同地に観世流の謡が広まる地歩を築いた<ref>当時はワキが地頭を兼ねていたため、地謡はシテ方とワキ方両方の職掌であった。現在でも観世流と福王流の謡の技法はほとんど同じである(大成版謡本)。</ref>後に福王流七世福王盛信は信望なく、高弟の岩井・井上・林・薗・浅野のいわゆる[[京都五軒家]]が観世流に転ずるという事件を引き起こすが、以後幕末まで五軒家と禁裏能楽御用の[[片山九郎右衛門]]家が京都の観世流を主導し、いわゆる「京観世」と呼ばれる一派を成すことになった。
 
==== 江戸時代後期 ====
十五世[[観世元章]]([[1722年]]〜[[1774年]])に至り、観世流は[[徳川家重]]・[[徳川家治]]二代にわたる能師範を独占し、他方で上記のような京都進出を完了するなど、その絶頂期を迎えた。元章はこれらの状況を受けて、弟[[織部清尚]](後に十七世宗家)を別家して観世織部家を立て、四座の大夫に準ずる待遇を獲得させたほか、[[国学]]の素養を生かした[[小書]]を多く創作し、さらには世阿弥伝書に加註のうえ上梓するなど旺盛な活動を行った。なかでも[[1765年]]に刊行のはじまった「[[明和改正謡本]]」は、復曲を含む全二百十番組という公定の謡本としてはかつてない規模であり、[[田安宗武]]・[[賀茂真淵]]らの協力によって字句の改訂を加えるなどきわめて意欲的な内容であった。しかしこれらの改正は能楽師にとって全曲の覚えなおしを意味するもので評判が大変悪く{{要出典}}<ref>しかしながら、「明和改正謡本」はすこぶる不評であった。観世座の一員らしい松井某が翌年に元章を批判してひそかに書いた『砭観録』なる書に「これを用ゐば此道これ限りなん」と慨嘆しているのが、玄人筋の評価で、素人も同様だったらしい。不評の第一の原因は、改訂の度合いが大きすぎたことである。…(中略)…大成期の世阿弥の発言を、三五〇年後の能にそのまま適用しようとする無謀さに、彼は気付かなかったらしい。(表章・天野文雄『岩波講座 能・狂言 I 能楽の歴史』(岩波書店、1987年)より引用)</ref>、元章の死後旧に復された。ただ「神歌[[式三番|翁]]」の詞章「どうどうたらり」を「とうとうたらり」と済んだ音にするなど、一部に元章が手を加えた跡が残される。
 
元章の後は、十六世三十郎章学(元章の子)、十七世織部清尚(元章の弟、分家初世)、十八世織部清充(清尚の子)、十九世織部清興(清充の弟、分家二世)、二十世左近清暢(清興の子)、二十一世左近清長(清暢の子)、二十二世三十郎清孝(清長の子)と相続し、清孝に至って[[明治維新]]を迎えた。
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#[[観世宗節|(三郎?)元忠]]
#*[[1509年]]〜[[1584年]]。6の子。多くの伝書の書写・執筆に携わったことでよく知られる。晩年は[[徳川家康]]の庇護を受ける。
#[[観世元尚|左近(三郎)元尚(元盛、元久)]]
#*?〜[[1576年]]。7の弟・小宝生の子。後に三河で家康に仕えるが早世。
#[[観世黒雪|左近(与三郎)身愛(黒雪)]]
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#*[[1930年]]〜[[1990年]]。22の曾孫。晩年に[[観世左近|左近]]を襲名。
#[[観世清和|清和]]
#*[[1959年]]〜。25の子。現家元。
 
=== 流内の構成 ===