「上杉景虎」の版間の差分

[[元亀]]元年([[1570年]])10月、北条氏康が上杉輝虎(謙信)と和睦して[[越相同盟]]が結ばれた際に、謙信の養子(人質)として上杉家に赴く(当初、氏政の子[[太田源五郎|国増丸]]が養子として決定していたが、幼子を養子に出すのは忍びないとの理由で養子から外された([[1569年]]10月)<ref>「五歳、六歳二候を、手元を可引離儀、親子之憐愍」『上越市史』上杉氏文書集1、817号</ref>。三郎の養子決定はその直後ではなく、一旦、北条幻庵の[[養子]]に入り([[1569年]]12月以降)、再び、上杉の養子として越後行きが決定している([[1570年]]2月以前)。人質としての待遇も当然の成り行きであったが、生涯[[独身]]の謙信は[[美男]]で聡明な三郎を大いに気に入ったと言われ、自らの姪の[[長尾氏|越後長尾家]]の一門・[[長尾政景]]の娘(上杉景勝の姉)<ref>江戸期の軍記物語の影響で以前は長尾政景の次女で上杉景勝の妹とされていたが、近年は長尾政景の長女であることから景勝の姉が定説とされる{{要出典}}。</ref>を妻として与え、かつての自身の名乗りであった「'''景虎'''」を継がせ、[[春日山城]]三の丸に住居を与えるなど、上杉一門として厚遇している<ref>また『関八州古戦録』では二の丸に住まわせたとある。しかし、近年の研究では御館の乱から撤退する芦名兵が平等寺薬師堂に残した落書から、景虎屋敷は春日山城内ではなく春日の町にあった可能性が指摘される(高志書院『上杉氏年表』P30)。</ref>。
 
元亀2年([[1571年]])、父氏康が死去したため、小田原へ帰参し、まもなく越後へと戻る<ref name="kenshingunki">「謙信軍記」</ref>。同年12月、兄氏政が武田家へと鞍替えして同盟([[甲相同盟]])を結んだため、謙信との同盟は破棄されるが、そのまま越後へ留まった<ref>理由については不明であるが、黒田基樹氏は北条氏が上野への支配権を残しておくための措置ではないかという説を出している。</ref>
 
天正3年([[1575年]])の『上杉家軍役帳』によると軍役を課せられていないため、このことを根拠として景虎が後継者であったという説がある。