「軍部大臣現役武官制」の版間の差分

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経済準学士 (会話 | 投稿記録)
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[[1936年]]([[昭和]]11年)、[[広田内閣]]のとき、陸軍省官制及び海軍省官制に「大臣及次官ニ任セラルル者ハ現役将官トス」との規定を設けて(附表、別表)、軍部大臣現役武官制を復活させた。この制度復活の口実には、「[[二・二六事件]]への関与が疑われた予備役武官(事件への関与が疑われた[[荒木貞夫]]や[[真崎甚三郎]]が、事件後に予備役に編入されていた)を、軍部大臣に就かせない」ということが挙げられていた。この制度を復活させた広田内閣は、[[腹切り問答]]によって自らが制定した軍部大臣現役武官制による陸軍大臣と揉めて、議会を解散する要求を拒絶する代わりに総辞職に追い込まれた。
 
その後、[[1937年]](昭和12年)に[[宇垣一成]](予備役陸軍大将)に対して天皇から首相候補に指名されて組閣命令が下った際、陸軍から陸軍大臣の候補者を出さず、当時現役軍人で唯一引き受けてくれそうな[[小磯国昭]](当時[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]司令官)に依頼するも断られ(小磯は「引き受けたとしても、東京に来る途中で「予備役編入」の電報陸軍上層部か届いて、そで終わりですよ」と答えたという)、自身が予備役だった陸相兼任するために「自らの現役復帰と陸相兼任」を勅命きない実現させるよう[[湯浅倉平]][[内大臣府|内大臣]]に打診して拒絶されたため組閣を断念せざるを得ない状態へ追い込まれ、[[1940年]]には[[米内内閣]]が[[畑俊六]]陸相の単独辞職により崩壊するなど、日本の軍国主義の深刻化に拍車をかけることになった。なお、大命降下された宇垣から入閣交渉を受けた[[小磯国昭]](当時[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]司令官)は「引き受けたとしても、東京に来る途中で「予備役編入」の電報が陸軍上層部から届いて、それで終わりですよ」と答えたという。
 
このように現役武官制と言っても現役武官の誰でも陸相に出来るというわけではなく、「軍の総意」にかなわない人事は難しかった。陸軍の場合は[[陸軍三長官|三長官]]会議(陸相・[[参謀総長]]・[[教育総監]])の合意によって新陸相を推挙することとしており、昭和時代には陸軍の幹部人事について三長官が会議を開くことが陸軍省参謀本部教育総監部関係業務担任規定で明文化された。この「[[天皇]]の軍隊の最高幹部がなんら倫理的葛藤なしに天皇の指名した首相を拒否・打倒する」事態については、[[山本七平]]・[[小室直樹]]・[[堺屋太一]]などが社会評論の題材として分析している。
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なお、昭和期には海軍大臣人事が問題となって内閣の死命が制せられた例はない。ただ、東條内閣が成立する時に海軍が海相候補として出した[[豊田副武]]を[[東條英機|東條]]が拒否し、[[海軍次官]]の[[沢本頼雄]]が「東條じゃどうせ戦争になるから代わりを出さない(ことによって東條内閣を潰す)ことにしましょう」と進言したことがあるが、[[及川古志郎]]海相らの判断で[[嶋田繁太郎]]を出すことになり、東條内閣は無事成立に至ったという例がある。
 
また、1944年の小磯内閣成立時には、当時予備役であった[[米内光政]]が勅旨により現役復帰して海軍大臣に就任している。現役武官制復活以降、予備役将官が現役復帰して軍部大臣となったのはこれが唯一の例である。百瀬孝のように「現役復帰させればよいというのでは現役武官制の趣旨に反する」という指摘もあるが、米内の場合は海軍の総意がそれを望んでおり、特に問題視はされなかった。[[宇垣一成]]に大命降下した際には、陸軍大臣が得られずに組閣に窮した宇垣が「自らの現役復帰と陸相兼任」(宇垣は当時後備役陸軍大将)を勅命で実現させるよう[[内大臣府|内大臣]]に打診したが、内大臣に拒絶されている
 
=== 消滅とその後 ===