「北条幻庵」の版間の差分

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若い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺し、のちに京都・[[三井寺]]でも修行をした。相模国に戻ってからも還俗せずに、相模中郡と武蔵小机領の領地支配を担当した。
 
[[永禄]]3年([[1560年]])、長男の三郎(実子)が夭折したため、次男の綱重に家督を譲った。また[[北条氏康]]の弟[[北条氏尭]]を[[小机城]]主とした。しかし、程なく氏尭が没し、永禄12年([[1569年]])に[[武田信玄]]との[[駿河国]]([[静岡県]])の[[蒲原城の戦い]]において次男の綱重、三男の長順(時長)らを相次いで失ったため、同年、北条氏康の7男[[上杉景虎|北条三郎(上杉景虎)]]を養子に迎えて家督と小机城を譲り、隠居して'''幻庵宗哲'''と号した。
 
[[永禄]]12年([[1569年]])、[[越相同盟]]の成立により、三郎(景虎)が越後の[[上杉謙信]]の養子となった後は、[[北条氏光]]に小机城を継がせ、家督は氏信(綱重)の子で孫・[[北条氏隆|氏隆]]に継がせた。