「北条氏綱」の版間の差分

編集の要約なし
編集の要約なし
編集の要約なし
| 死没 = [[天文 (元号)|天文]]10年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1541年]][[8月10日]])
| 改名 = 伊豆千代丸([[幼名]])→伊勢氏綱<br />→北条氏綱
| 別名 = [[仮名 (通称)|仮名通称]]:新九郎
| 諡号 =
| 神号 =
| 官位 = 従五位下 左京大夫
| 幕府 =
| 主君 = [[今川氏親]]
| 藩 =
| 氏族 = [[伊勢氏]]→[[後北条氏]]
 
=== 武蔵・下総侵攻 ===
早雲の時代、北条氏の居城は伊豆の[[韮山城]]であったが、氏綱は居城を相模の[[小田原城]]に移した。この時期に氏綱は姓を伊勢から北条へと改めたと推定される
 
[[大永]]4年([[1524年]])、氏綱は、[[上杉朝興|扇谷上杉朝興]]が[[上杉憲房|山内上杉憲房]]との和睦のために川越城に在城している隙に[[扇谷上杉氏]]の家臣・[[太田資高]]を寝返らせて[[江戸城]]を攻略する。江戸城を攻略後すぐに追撃を開始して、板橋にて板橋某・市大夫兄弟を討ち取る。同年2月2日に大永2年に当時まで味方であったことが確認できる岩付太田氏が敵対したために[[岩付城]]を攻撃し落城させ太田備中守(太田資頼の兄)を討ち取った。また、毛呂城主の毛呂太郎・岡本将監が北条方に属したため、毛呂~石戸間を手中におさめ敵の松山城~川越城間の遮断に成功する。だが、大永4年6月18日に太田資頼が朝興に帰参してしまった。同年7月20日には、朝興からの要請により武田信虎が武蔵国まで出張り岩付城を攻め落とした。これを背景として、太田資頼は岩付城に復帰することができた。[[享禄]]3年([[1530年]])には嫡男・氏康と共に[[上杉朝興]]と[[多摩川]]河原の小沢原で戦い、これに大勝した([[小沢原の戦い]])。天文6年([[1537年]])には朝興が死去して、若年の[[上杉朝定]]が後を継いだことにつけ込んで侵攻し、[[河越城]]を奪取した。
 
=== 最期 ===
氏綱は関東に勢力を拡大する一方で、父早雲の代より主従関係にあった[[駿河国]]の[[今川氏親]]との駿相同盟に基づいて[[甲斐国]]の[[武田信虎]]と甲相国境で争い、天文5年(1536年)に今川氏で[[今川義元|義元]]が家督を継承し甲駿同盟が成立すると相駿同盟が破綻し、今川とも抗争した([[河東の乱]])。これにより、今川氏から名実ともに独立した
 
関東において氏綱に敗れた扇谷上杉家の朝定が、[[山内上杉家]]の[[上杉憲政]]と手を結んで反攻の兆しを見せ始め、さらに今川軍との戦いも長期化する中、天文10年(1541年)に病に倒れ、7月19日に死去した。享年55。(日付は異説あり)
匿名利用者