「上杉謙信」の版間の差分

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'''上杉 謙信'''(うえすぎ けんしん)/'''上杉 輝虎'''(うえすぎ てるとら)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[越後国]]の武将・[[戦国大名|大名]]。後世、'''越後の虎'''とも'''越後の龍'''とも呼ばれた。内乱続きであった越後を統一して繁栄させ、他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、多大な戦果をあげた。[[武田信玄]]、[[北条氏康]]等が率いる強大な敵対勢力と同時に抗戦しながらも、その稀代の軍事的手腕を発揮して侵攻を食い止めた。戦国の乱れた世を鎮める戦いに、その生涯を捧げたとされる人物である
 
== 概要 ==
 
=== 小田原城攻め・関東管領就任 ===
[[永禄]]2年([[1559年]])4月、再度上洛して[[正親町天皇]]や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から[[管領]]並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。景虎と義輝との関係は親密なものであったが、義輝が幕府の重臣である[[大舘晴光]]を派遣して長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し[[三好長慶]]の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の溝は大きく実現しなかった。この年関東では[[下野国]]の堅城[[唐沢山城]]が、北条氏康によって派遣された[[北条氏政]]率いる3万5千の大軍により包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撃退。永禄3年([[1560年]])3月、越中へ初めて出陣し、[[神保長職]]の居城・[[富山城]]を落城させる。さらに長職が逃げのびた堅固な[[増山城]]も攻め落して逃亡させ、[[椎名康胤]]を援けた。
 
5月、北条氏康を征伐するため関東へ出陣し[[厩橋城]]・[[沼田城]]・[[岩下城]]・[[那波城]]など北条方の諸城を次々に攻略、厩橋城で越年する。年が明けると軍を率いて上野から武蔵、さらに氏康の居城・[[小田原城]]を目指し相模国にまで侵攻。総大将が政虎である上に兵力差が大きく、野戦に利なしと悟った氏康は小田原城や滝山城など[[武蔵国|武蔵]]や相模の諸城へ退却し篭城する。永禄4年([[1561年]])3月に関東管領・上杉憲政を擁して、[[宇都宮広綱]]、[[佐竹義昭]]、[[小山秀綱]]、[[里見義弘]]、[[小田氏治]]、[[那須資胤]]、[[太田資正]]、[[三田綱秀]]、[[成田長泰]]ら旧上杉家家臣団を中心とする10万の大軍で小田原城をはじめとする諸城を包囲('''[[小田原城の戦い]]''')。小田原城で籠城する氏康を窮地に追い込む。
 
また小田原へ向かう途上には、関東公方の在所で当時は関東の中心と目されていた[[古河御所]]を制圧し、北条氏に擁された[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]を放逐のうえ[[足利藤氏]]を替りに[[古河御所]]内に迎え入れた。
=== 第四次・第五次川中島の戦い ===
[[画像:Sengoku period battle.jpg|thumb|200px|第四次川中島の戦い]]
関東から帰国後の永禄4年([[1561年]])8月、政虎は武田信玄との雌雄を決するため、1万8,000の兵を率いて[[川中島]]へ出陣する('''第4次川中島の戦い''')。荷駄隊と兵5,000を善光寺に残し1万3,000の兵を率いて武田領内へ深く侵攻、[[妻女山]]に布陣する。このとき武田軍と大決戦に及び、[[武田信繁]]・[[山本勘助]]・[[両角虎定]]・[[初鹿野源五郎]]ら多くの敵将を討ち取り総大将の信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与えることに成功。特に信玄が最も信頼する実弟・信繁を討ち取ったことは、武田側にとって致命的な痛手となった。上杉軍の死傷者も甚大であったため痛み分けに終わったが、上杉軍の最高幹部級の武将に戦死者が一人もいないため、戦術的には上杉軍の勝利とされる。
 
11月、再び関東に出陣、武蔵国北部において氏康と戦う([[生野山の戦い]])。しかし川中島で甚大な損害を受けたことが響いてこれに敗退(内閣文庫所蔵・小幡家文書)。ただし、この合戦で謙信自身が直接指揮を執ったという記録は発見されていない。
その後、古河御所付近から一時撤退する(近衛氏書状)。その結果、成田長泰や佐野昌綱を始め、武蔵国の同族[[上杉憲盛]]が北条方に降る。政虎は上野・武蔵・[[常陸国|常陸]]・下野・[[下総国|下総]]などで転戦するも、関東における領土は主に東上野にとどまった(但し謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方)。12月、将軍義輝の一字を賜り、[[諱]]を'''輝虎'''(てるとら)と改めた。
 
永禄5年([[1562年]])7月と9月、越中に出陣して椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。永禄7年([[1564年]])、信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ[[蘆名盛氏]]軍を撃破。その間に信玄が信濃[[野尻城 (信濃国)|野尻城]]を攻略したが奪還し、後に川中島で再び対峙した('''第5次川中島の戦い''')。しかし信玄が輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。
 
川中島の戦いにおいて、信濃守護を兼ねる信玄の使命である信濃統一を頓挫させることに成功した。一方で領土的には信濃の北辺を掌握したのみで、[[村上氏]]・[[高梨氏]]らの旧領を回復することはできなかった。
 
=== 武田・北条連合軍との戦い ===
関東の戦線は当初、大軍で小田原城を攻囲するなど輝虎が優勢であったが、一進一退の様相を呈した後、武田・北条両軍に相次いで攻撃されるに及び劣勢を強いられる。
 
永禄5年([[1562年]])、上野[[館林城]]主の[[上野赤井氏|赤井氏]]を滅ぼしたが([[舘林城の戦い]])、佐野昌綱が籠城する唐沢山城を攻めたものの落城させるには至らなかった。永禄6年(1563年)には奪い取っていた武蔵松山城が武田・北条連合軍に攻撃され2月に落城。輝虎は反撃に出て要害堅固な武蔵の[[忍城]]を攻め、城主・成田長泰を降伏させる([[忍城の戦い]])。次いで[[小田家時]]の守る武蔵の[[騎西城]]を攻め落とし、小山秀綱の守る下野の[[小山城 (下野国)|小山城]]も攻略。さらに下総にまで進出し、秀綱の弟である[[結城城]]主・[[結城晴朝]]を降伏させた。なおこの年、武田・北条連合軍により上野・厩橋城を奪われたがすぐに奪回し、北条高広を城代に据えた。永禄7年([[1564年]])、[[常陸国|常陸]]へ入り、小田氏治の居城・[[小田城]]を攻略。さらに下野の唐沢山城を攻め佐野昌綱を二度降伏させた。
 
永禄9年([[1566年]])には再び小田城に入った小田氏治を再び降伏させるなど積極的に攻勢をかける。また、里見家が北条家に追い詰められていたため、これを救援すべく下総にまで奥深く進出、千葉氏の拠点である[[臼井城]]に攻め寄せた。だが城自体は陥落寸前まで追い詰めたものの[[原胤貞]]より指揮を受け継いだ[[軍師]]・[[白井入道浄三]]の知謀の前に、結果的には撤退することとなった([[臼井城の戦い]])。
 
さらにその頃、信濃北辺の制圧を断念した武田信玄が西上野へ進出し、上杉方の長野氏や倉賀野氏を滅ぼした。永禄8年([[1565年]])9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を率いて武田の上野における拠点・[[和田城]]を攻めたが成功せず。そのため輝虎に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条に降る。永禄10年(1567年)には上野厩橋城の上杉家直臣・北条高広まで北条に寝返った。関東において、武田信玄と北条氏康の両者と同時に戦う状況となり守勢に回る。さらに輝虎は奥州進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。
 
永禄10年(1567年)、輝虎は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、3月に昌綱を降伏させた。4月、敵方となっていた北条高広を破り、厩橋城を奪還。上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図る。
この頃から次第に越中へ出兵することが多くなる。永禄11年([[1568年]])3月、越中の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず([[放生津の戦い]])。7月には武田軍が信濃最北部の[[飯山城]]に攻め寄せ、支城を陥落させる等して越後を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく、越中[[松倉城 (越中国)|松倉城]]・[[守山城 (越中国)|守山城]]を攻撃した。
 
ところが時を同じくして、5月に信玄と通じた上杉家重臣で[[揚北衆]](あがきたしゅう)の[[本庄繁長]]が謀反を起こす([[本庄繁長の乱]])。この対応に追われ輝虎はため、越後への帰国を余儀なくされる。越後軍の中でも精強で知られる揚北衆の繁長による反乱に、輝虎は苦心することになる。しかし輝虎はまず繁長と手を組む[[出羽国|出羽]][[尾浦城]]主・[[大宝寺義増]]を降伏させ、繁長を孤立させる。すかさず11月に繁長の居城・[[本圧城]]に猛攻を加え、謀反を鎮圧した([[本庄繁長の乱]])。12月、武田と断交した[[今川氏真]]に救援を懇願される。永禄12年([[1569年]])には蘆名盛氏の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・[[本庄顕長]]を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた義増の降伏により、出羽[[庄内地方]]を手にする。
 
永禄12年([[1569年]])3月、武田信玄への牽制、そして窮地に陥っていた関東中心部の重要拠点・下総[[関宿城]]を救うため、関東管領である輝虎は宿敵とも言える北条氏康と同盟する([[越相同盟]])。この同盟に基づき、[[北条氏照]]は関宿城の包囲を解除、上野国の北条方の豪族は輝虎に降る。北条高広も帰参が許された。
元亀4年([[1573年]])、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の影響力が薄らぐ。3月には未だ抵抗を続ける椎名康胤の守る富山城を再度攻め落とす。8月には越中と[[加賀国|加賀]]の国境付近まで進軍、一向一揆の立て籠もる[[朝日山城]]を落城させ、これにより越中の過半を制圧した。さらに江馬氏の服属で[[飛騨国]]にも力を伸ばした。
 
しかし同時期に北条氏政が上野に侵攻、これに対するため[[天正]]2年([[1574年]])、関東に出陣して上野[[新田金山城|金山城]]主の[[由良成繁]]を攻撃、3月には[[膳山城]]・[[女淵城]]・[[深沢城]]・[[山上城]]・[[御覧田城]]を立て続けに攻め落とし戦果をあげた。しかし成繁の居城である要害堅固な金山城を陥落させるに至らず。さらに武蔵における上杉方最後の拠点である[[羽生城]]を救援するため、氏政と再び利根川を挟んで相対する(第二次利根川の対陣)。しかしさすがの謙信も巨大な暴れ川である上に増水していた利根川を渡ること出来ず、結局羽生城を自落させた。
 
北条氏政が下総関宿城の[[簗田持助 (安土桃山時代)|簗田持助]]を攻撃するや、謙信は北条方の武蔵騎西城・忍城・[[鉢形城]]など諸城を相次いで攻めて後方かく乱を狙ったが成功せず、関宿城は降伏してしまった(第三次[[関宿合戦]])。閏11月には北条方の[[古賀公方]]・[[足利義氏]]を[[古河城]]に攻めるも、攻略出来ず。同年12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。天正3年([[1575年]])1月11日、養子の喜平次顕景の名を[[上杉景勝|景勝]]と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。
天正4年(1576年)9月、名目上管領[[畠山氏]]が守護をつとめる越中国に侵攻して一向一揆支配下の富山城・増山城・守山城を落とした。次いで椎名康胤(越中守護代)の[[蓮沼城]]を陥落させ康胤を討ち取り、ついに騒乱の越中を平定した。
 
同11月、[[能登国]]に進み巨城・[[七尾城]]を囲んだ('''第一次[[七尾城の戦い]]''')。しかし七尾城は難攻不落の山城であり、攻めあぐんで越年する。天正5年([[1577年]])、春日山に一時撤退した('''第一次[[七尾城の戦い]]''')。その間に敵軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は落とされたが、閏7月、再び能登に侵攻し、七尾城を包囲する('''第二次七尾城の戦い''')。このとき、城内で[[疫病]]が流行、厭戦気分が蔓延し、9月15日に[[遊佐続光]](能登守護代)らが謙信と通じて反乱を起こした。織田信長と通じていた[[長続連]]らは殺され、七尾城は落城し能登の傀儡国主である[[畠山春王丸]]も病により没したため、能登は上杉謙信の支配下に入った('''第二次七尾城の戦い''')上杉謙信には名門畠山家の復興が思慮にあり、有力国人を廃したうえで[[畠山義春]]を能登の国主として擁立する計画であったといわれている。
 
また、この戦いの後、[[畠山義隆]]の息子を養子にすると書かれた謙信書状が出されており、この子は春王丸自身や実際には[[畠山義続]]の子であるともされる<ref>また春王丸に弟がいた可能性もあり、その弟という説があるが定説にはなってはいない</ref>。