「小笠原家長」の版間の差分

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'''小笠原 家長'''(おがさわら いえなが、生年不詳 - [[文明 (日本)|文明]]12年([[1480年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。松尾小笠原家(信濃[[小笠原氏]])当主。信濃[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主。父は[[信濃国|信濃]][[守護]]の[[小笠原光康]]。子に[[小笠原貞基|貞基]]。
 
[[応仁]]元年([[1467年]])からの[[応仁の乱]]では東軍側に付く。文明5年([[1473年]])、家長は[[室町幕府]]の命により、[[木曽家豊]]とともに東[[美濃国|美濃]]へ攻め、[[土岐氏]]の居城・[[大井城]]と[[荻島城]]を攻め落とす。『[[小笠原文書]]』によると[[武田兵庫助]]を介して、

『小笠原文書』によると文明10年([[1478年]])、[[尾張国|尾張下四郡]]の[[守護代]]であった[[織田敏定]]の要請で[[美濃国]]を牽制するため、援軍を送ったと
 
小笠原家当主の家督を巡り、従兄の信濃守護・[[小笠原政秀]]と対立し、文明12年([[1480年]])、政秀に討たれた。