「小笠原康広」の版間の差分
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'''小笠原 康広'''(おがさわら やすひろ、[[享禄]]4年([[1531年]])- [[慶長]]2年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]([[1598年]][[1月15日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国]]・[[安土桃山時代]]の[[後北条氏|北条氏]]・[[徳川氏]]家臣。[[小笠原元続]]の子。正室は[[北条氏康]]の娘・種徳寺殿([[寛永]]2年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1625年]][[7月9日]])没)。子に[[小笠原長房 (旗本)|小笠原長房]]・[[伊東政世]]正室・[[吉良氏広]]([[蒔田頼久]])正室がいる。通称・六郎。兵部少輔、後に播磨守と名乗る。法名は宗有(寛政重修諸家譜)。
[[北条氏綱]]の母方の縁戚であり、
天正18年(1590)の[[豊臣秀吉]]の[[小田原の役|関東平定]]後、氏直に従って[[高野山]]に入り[[出家]]して播磨入道と号した。氏直死後の[[文禄]]元年([[1592年]])、[[加々爪政尚]]の勧めで[[上洛]]して徳川家康に仕えた。
== 参考文献 ==
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